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先見創意の会

中浜万次郎に学ぼう!

岡光序治 (会社経営、元厚生省勤務)

薩摩藩主 斉彬公の謁見の間

時は、1851年(嘉永4年)秋。万次郎(John Mung)24歳。漂流から10年目。

斉彬公は自ら万次郎にアメリカ事情を尋ねた。万次郎は、その答えが自分の運命を決めることを察知して胸はとどろき恐怖の嵐が頭を駆け巡った。が、意を決し、返答。
「アメリカは開かれた国で、学術は日々進歩し、電信、鉄道、蒸気船など多くの発明がなされております。」捕鯨船についての問いに、その大きさ、速さ、嵐の中での操船技術、何千というオイルの樽と多くの人を搬送する機能などを語った。

次いで、問われたアメリカ政府については、次のように答えた。
「アメリカ政府は、世界中で最も優れていると言われております。支配者は、世襲でなく、優れた知識と能力を持っている人が選ばれ、4年間その座につきます。その方は、合衆国大統領といわれます。階級間の差別はなく、低い身分の人でも官吏になれます。つまり、生まれや家系はほとんど影響せず、個人の能力が決め手となります。個人の権利の保護はこの国の基本原理となっております。」

武器や火力についての問いには、ボストン港で見た戦いの絵を描いて見せた。そして、「私が住んでいた街の小さな港でさえ要塞化しております。」「大砲の砲弾の直径は約10インチ、大砲の長さは12フィートほど。船はカノン砲を装備し、船員はライフルで武装しています。」「しかし、アメリカは自国の開発に忙しく、他国を攻撃するいとまはありません。」と付け加えることを忘れなかった。

突然、目の前の床に、彼が持ち帰り没収されていた世界地図が広げられた。彼は、この機会を逃さず、言うべきことを言おうと決心して、「これが世界です。この大洋で捕鯨船や商船が嵐に遭い難渋すると、水と燃料が不足致します。幕府は、しかし、有無を言わさず、すべての船舶を追い払います。アメリカ人はこれらの品を日本の港で入手する許可を得たいだけなのです。」と語った。斉彬公は黙していた。(以上は、「HEART of a SAMURAI」,Margi Preus, AMULET BOOKS, NEW YORK から、意訳)

経歴

・ 生立ち 1827年1月、土佐国幡多郡中ノ浜村で半農半漁の家の次男として誕生。
・ 漂流 1841年1月、足摺岬沖での鯵鯖漁に出る漁船に乗り込む。仲間は、筆乃丞(38歳、のち伝蔵と改名)、重助(25歳)、五右衛門(16歳)、寅右衛門(26歳)。足摺岬の沖合で操業中、強風に遭い遭難。5日半漂流、伊豆諸島にある無人島の一つである鳥島に漂着。143日間を生き延び、1841年6月、Captain Whitfield 率いるアメリカの捕鯨船the John Howland 号が食料として海亀を確保しようとして島に立ち寄った際、発見され救助。鎖国の日本には帰れず、1841年11月、ハワイのホノルルに寄港した際、万次郎以外の4名は下船、万次郎は捕鯨船員となり乗船継続。
・ 渡米 1843年5月、捕鯨航海を終え、マサチューセッツ州ニューベッドフォードに帰港。Whitfieldの故郷Fairhavenで彼の養子のようになり一緒に暮らす。小学生に交じり英語に接した後、the Stone House Schoolで正規に英語を学び、1844年には、the Bartlett School of Navigationで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学習。首席で卒業。
・ 捕鯨生活と帰国 1846年5月、元の乗組員仲間の懇請で、捕鯨船フランクリン号に乗船・捕鯨生活。(当時、鯨油は一般の灯火として使われる生活必需品であった。)1849年9月、ニューベットフォード帰港。
日本帰国の資金を得るため、ゴールドラッシュに沸くカルフォルニアで金を採掘。得た資金で、ホノルルに渡り、漁船の仲間と再会。伝手を頼り、1850年12月、上海行きの商船に伝蔵と五右衛門と共に乗り込む。
1851年、その商船から自己のボートを下ろし、琉球に上陸。薩摩藩での取調の後、長崎に送られ、長崎奉行所で尋問。この間、日本語を勉強。踏み絵を踏んだ後、土佐藩に引き渡され、帰国から1年半後の1852年、漂流から11年目に帰郷を果たす。
所持を許された物のうち、おみやげとして、鏡を長姉に、ボタンを妹に、サイコロ一組を長姉の夫に、白砂糖の小さな袋を弟に、そして、彼が訪れたすべての海岸で拾った貝殻を母に。残りは、針、ハサミ、クスリ、本と地図。
・ 帰国後の活躍 帰郷後すぐに、土佐藩の士分に取り立てられ、藩校の教授となる。
1853年8月、直参旗本となる。(この年、7月ペリ―来航)
1856年軍艦教授所教授に任命され、造船の指揮、測量術、航海術の指導、英会話書「英米対話捷径」執筆、「ボーディッチ航海術書」翻訳、通訳、船の買い付けなど。
1860年、日米修好条約の批准書交換の遣米使節団の一員となり、咸臨丸に乗る。船長の勝海舟に代わり操船。彼の活躍によって、無事、サンフランシスコに到着。
1864年、薩摩藩の開成所教授
1866年、土佐藩の開成館教授
1869年、開成学校の英語教授
1870年、普仏戦争使節団の一員として欧州派遣。体調を壊し、以後、静養。その後は、教育者として活動。
1898年、71歳で逝去。

社会的影響

・ アメリカの様々な文物を紹介し、幕末の志士や知識人に多大な影響を与えた。
・ 日米の懸け橋の役割を果たした。

われわれの課題

・ この人は、決断力、実行力に富み、勤勉。おごることなく謙虚。
・ 混迷の今日、この人物を再認識し、その自己鍛錬法などについて学び、世界との懸け橋となる人物の輩出につなげていかなければならない。

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岡光序治(会社経営、元厚生省勤務)

◇◇岡光序治氏の掲載済コラム◇◇
◆「スマートエイジングの勧め」【2022.5.17掲載】
◆「脱炭素-日本のとるべき道【提案】」【2022.1.25掲載】
◆「日本は、2050年には、エネルギー自給国になろう!」【2021.10.19掲載】
◆「『夢の燃料』水素とは?」【2021.6.8掲載】

☞それ以前のコラムはこちらからご覧ください。

2022.08.23