自由な立場で意見表明を
先見創意の会

「私の死」は考えない

滝田 周 [(株)東京法規出版 保健事業企画編集2部 編集長]

死は自分の背中のようだ

最近、死ぬのがやたら怖い。

以前は、自分も「いつかは」死ぬのだと思っていた。ところが今は、「普通に考えて、あと20年ちょっとで」死ぬのだと思う。死ぬということに妙なリアリティがまとわりつき、死について考えることが多くなった。一昨年、歳の近い縁類を病気で亡くした。前後して、有名人の訃報が相次いだ。その頃から、こんなふうになった。

「普通に考えて」というのは、今年58歳になる自分の平均余命を踏まえての話だが、いつ死ぬかなんて、誰にもわからない。明日、不慮の事故で死ぬかもしれないし、こんなふうにグダグダ言っている奴に限って、⾧生きするかもしれない。どうせわかりはしない人生の残り時間に悶々とするのは詮無いことだ。あと10年、20年生きようが 40年生きようが関係ない。問題はその中身だ、という正論も聞こえてきそうだ。ごもっともである。

ただ、そうは言ってもなお、「20年ちょっとかぁ……」と、思ってしまう。人間だもの。20年なんて、短くないか? あっという間じゃないか。足元をすくわれるような、底の抜けたような不安を覚える。人生の柔らかい下腹をひと撫でされ、ゾクッとする。

死ぬってどういうことか? 体験した方の話をぜひ聞きたいが、それは絶対にできない。死を体験した人は、徹底して例外なく、存在しないからだ。どこかへ行ってしまったのか? 無になったのか? 無になるとはどういうことか? 死というイベントは、世界中至るところで、今この瞬間にも、無数に起きているにもかかわらず、まったく何にもわからない。

死は自分の背中のようだ、と誰かが言っていた。いつでも、どこにいても、すぐ後ろにひっついているくせに、この目で直接確かめることは絶対にできない。なんてこった。

大人なんて、ろくなもんじゃない

死んだらどうなるんだろう? 死ってなんだろう? そんな実存的不安は、思えば子どものころには身近なものだった。

親戚に不幸があった。葬式から帰ってきた父は、茶の間で喪服のまま腰を下ろしネクタイを緩めながら、葬式の論評を始める。「まぁ、いい葬式だったよ」「でも、お経は先代の(住職の)ほうがいい。息子は、まだ下手くそだなぁ」

お父さん。そんなことより、死ぬの怖くないの? 〇〇オジサンは、どこへ行っちゃったの? 心の中でそう叫んだ。人ひとり死んでいるのに、なんで大人は平気なんだろう? それどころか、お経に文句までつけている。お母さんも平気な顔で、それに応じている。大人になると、死ぬのが怖くなくなるのだろうか? すごいなぁ……。死への恐怖と大人に対する畏怖がない交ぜになって、幼心は千々に乱れた。

そんな子どもも大人になって、そしてなんとか、還暦目前までたどり着いた。
「大人になると、死ぬのが怖くなくなるんじゃない。世事にかまけて、その怖さをいっとき忘れているだけなんだ」。半世紀前のいたいけな自分に対し、今の自分ならそう答える。葬式を論評するなんて所業も、死というものを世事と同じレベルに揃えることで恐怖をごまかし、安心したいという防衛機制に過ぎない。似たような「ズル」は、人生で何度もやってきたからよくわかる。この拙稿自体にも、そんな「ズル」の臭みがある。

とにかく大人なんて、ろくなもんじゃない。世事にかまけるだけじゃなく、世事から逃げる方法もいろいろ覚える。たとえばアルコールだ。うまく酔うことができれば、しらふの時には絶対無いと思っていた逃げ道が見えてくる。それも一つだけじゃない。二つも三つも四つも見えてきて、こんな小心者でも心寛(ゆる)やかになれるのだ。とても有難い。だから、時に飲みすぎてしまうのだが、その数時間後には、見えたはずの逃げ道のほぼすべてがマボロシであることを、宿酔の中で思い知ることになる。

心の隙間に、死の恐怖が横入りしてきた

こんなこと、何度も繰り返しているのに、また飲む。そして学ばない自分に嘆息しつつ、またまた飲んでしまう。それほどに、世事というものはわずらわしく、しんどいからだ。しかし、このわずらわしさ、しんどさゆえに、かまけざるを得ず、結果として世事は、死の恐怖、実存的不安をしばし忘れさせてくれるのだと思う。

かまけるべき世事がないと、実存的不安と対峙するしかなくなる。「死とは何か?」「何のために生きているのか?」「自分は何者か?」。これを問い続ける。キツい。これは相当キツい。世事を知らない、世事にまみれることがまだ少ない子どもや若者ほど、いったんこうした疑問にからめとられると、なかなか抜け出せなくなる。世事を拒否して生きる引きこもりの人も、似たような状況に陥るのではないかと想像する。

いや、他人事ではない。私自身、最近、世事にかまけることが、少々難しくなってきたからだ。この歳になると、たいていの世事に対し既視感を覚え、新鮮味が減ってくる。楽しいことでも辛いことでも、没入しづらくなる。そんな心の隙間に、縁類の死や有名人の訃報がトリガーとなって、実存的不安が横入りしてきたのだ、と自己分析してみる。なんてこねくりまわしたが、言ってしまえば男性更年期障害、初老期うつなんだろう。

いずれにせよ、とりあえずでも、自分の中で「死」をどう処理していくか?

かの養老孟司先生は、著書や講演で、ジャンケレヴィッチという哲学者の「死の人称」をよく引用する。一人称(私)の死、二人称(あなた=身近な人)の死、三人称(他人)の死のなかで、体験できるのは、二人称、三人称の死だけ。二人称の死は、体験した人に深い爪痕を残す。三人称の死はニュースなどで見聞きする死で、ほぼ自分と無関係な死だ。これに対し一人称の死は、私という意識も存在もなくなるのだから、体験することはできない。ゆえに存在しない。存在しないものをあれこれ考えても仕方ないから、考えない。放っておけと、先生は説く。確かにそのとおりなんですけどね。理屈があまりにすんなり通り過ぎる分、かえって釈然としない。その一方で、「放っておけ」と突き放されると、妙に納得する。「私の死」は考えない。それでいいじゃないかとも思えてくる。

とりあえず見えてきた逃げ道を、アルコ―ル補給で確固たるものにしたいところだが、まだ昼だ。がまんしとこ。

ーー
滝田 周 [(株)東京法規出版 保健事業企画編集2部 編集長]

◇◇滝田周氏の掲載済コラム◇◇
「ワークライフバランス雑感」【2023.2.14掲載】
「喫煙歴40年のバカが、禁煙できた理由」【2022.10.11掲載】
「不正競争防止法と医療」【2021.12.2掲載】
「『良い人』たちをおだて、気持ちよく働いてもらいらい」【2021.3.4掲載】

2023.05.30