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先見創意の会

不正競争防止法と医療

滝田 周 [(株)東京法規出版 保健事業企画編集2部 編集長 ]

前の出版社を退職後、「医療経営情報誌の取材・編集」というツブシの効かない職歴のためか、なかなか次が決まらず、手あたり次第、履歴書を送った。その中に自費出版専業の会社があった。どういうわけか面接まで進み、指定された喫茶店に向かった。「世に埋もれた才能、秀作を発掘する」という常套句も早々に、細身で如才なさげな男がコーヒーを啜りながらしつこく聞いてきたのは、「知り合いのお医者さん、いない?」ということ。即座に悟った。コイツはお医者さん、特に功成り名を遂げ、本の一冊でも出してみたいという理事長・院長クラスの顧客リストが欲しいだけなんだ、と。「まぁ、いないわけじゃないですけれど、本まで出す人は、なかなかねぇ…」と、お茶を濁した。後日、幸いにして「貴殿の今後のご活躍を祈念します」という手紙が届いた。苦い思い出である。

しばらくは忘れていたこの思い出、先般、あるニュースに接した際、久しぶりによみがえった。勤務先の医院から、事務員の協力で患者情報を不正に持ち出した医師が、不正競争防止法違反(営業秘密の領得)で逮捕されたというニュースである。新規開業の顧客確保のためという。医師には罰金30万円の略式命令が出され、事務員は不起訴となった由。

もしもあの時、私がヘラヘラと「お医者さん? 知ってます、知ってます」とおべんちゃらを言って入社していたら、顧客リストを作らされ、営業させられたことは間違いない。しかし、そのリストは、私がゼロからつくったものではない。上司・先輩・同僚からの指導・教示・情報提供や蓄積してきた資料など、前の会社が与えてくれた有形無形のリソースによってつくられた知的財産、営業秘密といえる。もしそれが、別の会社の顧客探しに使われたとしたら、今の世なら、不正競争防止法違反に問われる可能性はゼロではない。そんなことを思った。

特に管理職クラスの人間が転職する場合、転職先の会社の狙いが本人のスキルに加え、その人間が持つ営業秘密にあることは、どの業界でもよくあることだ。

医療界においても、件の医師のような患者情報の持ち出しは、珍しいことではないのではないか、とは思う。評判の良い勤務医が開業する際、多くの患者さんが付いていくということはよくある。斯界の泰斗のような(しかも、臨床も上手な)大学の偉い先生が退官し開業する場合だったら、なおさらだ。そんなとき、たとえば教授が事務員に、「開業案内を送るから、僕の患者の住所の一覧がほしい」と頼んだら、渡してしまうのではないか。あくまで想像だけれど。

不正競争防止法は非親告罪となったが、報道によると、今回の事件では被害のあった医院から警察が相談を受けて逮捕に至ったという。新しく開業する医院と元の勤務先の診療圏が重なるような場合、そんなこともあり得るだろう。ただ、主に産業スパイにフォーカスした不正競争防止法が医療に適用され、いきなり逮捕に至ったことには、違和感を拭えない。

件の医師の行為が、本当に不正競争防止法に問われるものなのか判断する知識も材料も、私は持ちあわせていない。ただ、考え始めると、いろいろと気になる。

ところで、SNSにより誰もが手軽に情報発信できる時代となった今、自費出版業界はどうなっているのだろうか? 今回の事件を機に、そんなことも気になってきた。

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滝田 周(株式会社東京法規出版 保健事業企画編集2部 編集長)

◇◇滝田周氏の掲載済コラム◇◇
「『良い人』たちをおだて、気持ちよく働いてもらいらい」【2021.3.4掲載】

2021.12.02