自由な立場で意見表明を
先見創意の会

「良い人」たちをおだて、気持ちよく働いてもらいらい

滝田 周 (株)東京法規出版 保健事業企画編集2部 編集長

金回りのいい親類やご近所、友人知人を目にすると、「あそこン家(ち)は、きっと悪いことやっているに違いない」と言って、溜飲を下げる。口に出さないまでも、心の中でそう呟き、自分を納得させる。

真面目にコツコツ働いているのに、なかなか金がたまらない。だから、「あそこン家」が羨ましいのは確かだ。でも、こっちは悪いことなんて絶対しないし、できないからしょうがない――という納得だ。そうでも思わないと、湧き上がる嫉妬の気持ちを処理できない。日本人には、お金は不浄なもの、お金儲けするのは悪いこと、という性向が根強くある。こうした性向がこの論法を補強する。他人ごとのように言っているが、私もそうだ。

しかし、この論法が当てはまらないケースがある。「お医者さん家」だ。

開業医はもとより勤務医でも、お医者さん家は、われわれ庶民(この言い方もイヤですね)に比べたら、おしなべて収入は高い。でも、悪いこと、後ろ暗いことはやっていない。それどころか、病気を治し、健康を守り、命を救う崇高な仕事をしている。ケチの付けようがない――。

このモヤモヤが嫉妬となり、行き場のない憤懣がたまっていく。そしてある時、何かがトリガーとなって噴出する。

人間性のイヤな部分に関わる、ミもフタもない話ではあるが、この嫉妬こそが、医師・患者関係をめぐる問題の、実は大きな原因である、という見立てはどうだろうか?

地方の某国保診療所で、赴任してきた医師を一部の住民がいじめ抜いて何人も退職に追い込んだというニュースは、皆さんご存じだろう。事の真相は当事者にしかわからないが、医師本人のコメントを新聞報道(※)から見る限り、かなりひどいいじめだ。「昼食を食べに行く時間が無く、診療所内でパンを買った際、『患者を待たせといて買い物か』と冷たい言葉を浴びせられたり、自宅に嫌がらせのビラをまかれたこともあった」という。土日もお盆期間も診療し、盆明けに1日だけ休診にしたら、「平日なのに休みとは一体何を考えているんだ」という批判も受けた由。医師を招へいするための高額な給与は、特に僻村の住民にとって信じがたい額だろう。その嫉妬が、いわれない誹謗中傷を生んだと思う。そして、土日もお盆も休まないという非の打ちどころがない姿勢が、逆にその嫉妬をいっそう燃え上がらせたのではないか。

ここまでひどくなくても、事あればすぐ「医療事故だ。訴えてやる」などという理不尽なクレームを患者や家族から受けた――という経験は、ほとんどの医師がお持ちかと思う。嫉妬から来る憤懣が常に種火のようにくすぶっているから、何かあれば、医師に対しては根拠もない罵詈雑言をまき散らしても構わないということか。コロナ禍で起きている医療従事者への差別の根底にも、こうした嫉妬、憤懣が流れていると感じる。

そして、「庶民の味方」を僭称する大手マスコミが、この嫉妬、憤懣を助長させる。杏林大・割りばし事件のテレビドキュメンタリーを観たことがある。患者家族側の立場に終始し公正中立とはほど遠い内容で、「なぜ、あの時CTを撮らなかったのか」と、当直医があたかも怠慢であったかのようなナレーション(効果音付き)に辟易した。別のニュースでは、その同じ口で過剰診療批判をしたりもするのだが…。

もう20年以上も前だが、某全国紙が「開業医の月収は二百数十万円」という記事を掲載したこともある。当然、ここから人件費や医療材料費、光熱費などを払わなければならないが、そのことには触れない。読み飛ばせば、開業医が毎月、まるまる二百数十万円を手にしていると思わせてしまう書きっぷりだった。ミスリードとまでは言わないが、行間から、なにがしかの悪意を感じとったのは確かだ。

こうした「医者いじめ」が顕著になったのは、1980年代半ば以降だろうか。ちょうど、医療におけるパターナリズムが批判され、患者の権利やインフォームドコンセントの重要性が言われ始めたころだ。90年代に入ると、顧客満足度の向上が言われ「患者様」などという表層的なもの言いが流行した。

しかし、どんなに説明を尽くしても、ヘルスリテラシーが不足して話が理解できない人、はなから医者の話には聞く耳をもたない人はいる。そんな人が権利意識を持ち、「患者様」などと崇め奉られたら、増長するのは当然かもしれない。

ただ、パターナリズムが浸透していた昔は、医師に対する尊敬や感謝の念があった。それが、こうした一部の患者の増長を抑える役割を果たしていたように思う。患者には十分に説明を尽くし、医師・患者間の情報の非対称性を解消したうえで納得してもらうこと。患者の権利を尊重すること。そのこと自体に異論はない。しかし、非難轟々のパターナリズムにも、良い面はあった。という言い方が誤解を招くとしたら、必要性はあったと言い換えてもいい。ヒトがつくる文化や制度は、なにがしかの必要性に基づいている。100%正しい、100%間違いということは、あり得ない。パターナリズムに基づく医師への尊敬、感謝は、「患者さんのために働く」という医師のモチベーション向上にも寄与していたのではないか、と考える。

昨今、医師の働き方改革の議論が喧しい。しかし、仮にそれが実現しても、産科などでの立ち去り型サボタージュに見られるような医療崩壊を完全に防ぐのは、難しいのではないか。過酷な労働環境が改善されても、患者さんからの尊敬、感謝の念がなければ、モチベーションを保つのは難しいと思うのだが、医師の皆さん、いかがですか?

前職の医療経営情報誌の取材で多くの医師に会った。身内にも医師が一人いる。そうした経験からいうと、医師のほとんどは、患者さんのために働きたいと割と真剣に思っている「良い人」たちだ。「朝から外来だけど、明け方まで飲んじゃったよ」と話すような露悪的な人ほど、患者さんのことを思ってたりもする(いや、これはさすがに古いタイプの医師限定かもしれない)。

コロナ禍で、前述したような差別の半面、医療従事者に感謝しようという動きも広まっている。これでモチベーションが掻き立てられた医師をはじめ、医療従事者は多いのではないか。過労死を招くような労働環境は改善すべきだが、そうした大所高所の話はさておき、一人の患者としては、ヘルスリテラシーを身につけ、「良い人」たちをおだて、気持ちよく働いてもらうよう、心がけたいと思っている。

※引用元:「読売新聞」2011年3月29日朝刊

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滝田 周(株式会社東京法規出版 保健事業企画編集2部 編集長)

2021.03.04