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医療機関におけるDXはなぜ進まないか ~その根底にあるものを探る~

佐藤敏信 (久留米大学教授・医学博士)

はじめに

DXという言葉が聞かれるようになって久しい。しかし、実際に目覚ましい進歩を遂げているかというと、その実感はなく、医療の現場においてはなおさらだ。

政府レベルではどうなっているかというと、令和4年6月7日閣議決定された、「経済財政運営と改革の基本方針2 0 2 2」の第4章 中長期の経済財政運営の中の、2. 持続可能な社会保障制度の構築において、①全国医療情報プラットフォームの創設、②電子カルテ情報の標準化等、③診療報酬改定DXと明示されている。

これを受けて 、同年10 月11 日には総理を本部長とし関係閣僚により構成される「医療DX推進本部」が設置されたし、厚生労働省も、それに先立つ9月 22日には「医療DX令和ビジョン2030」厚生労働省推進チームを立ち上げるなどしている。しかし、上述の方針の記述や一連の資料を見ると、取り扱う内容は、医療DX全般についてではなく、その中でも文字通り政府レベルのものに限定されている。

医療のDX

さて、医療のDXと一口に言っても、それぞれの目的や手段からいくつかに分類できるだろう。多くの医療機関におけるそれは、業務の効率化、省力化ではないか。RPA(robotic process automation)が最も近いだろう。もちろん、一歩進めて診療に関する様々な情報を収集し、経営に資するようなヒントを得て、効率的な医療を推進することや、情報を学術的な視点から分析して、科学的な知見を得ることもあるだろう。最近ではオンライン診療も重要なテーマとなっている。

医療機関のDX

冒頭に書いたように医療機関におけるDX、具体的には上述のうちの業務の効率化、省力化が進んでいるように思えない理由について書いてみる。

「答」を先に言うと身も蓋もないが、要は当事者にとってみると、別に進まなくとも、ほとんどの職場では当面は困らないし、進めてもメリットが感じられないということ、そしてその原因として日本の文化そのものが横たわっているということだろう。

そもそも日本の職場(の多くの職員・社員)にとってみれば、前述のRPAなどが本格的に導入され、これまで人間が行っていた作業が効率化されれば、「人減らし」につながるとの「恐怖感」が過去から現在まで綿々と続いているのではないか。これに関しては、1970年代~80年代にかけて、職場へのコンピューターの導入を巡って、いくつかの職場では組合交渉が行われ、その折に産業衛生の観点も理由にしながら、「キータッチは一日○○タッチまで」などの条件が提示されていたことを思い出す。

もちろん医療機関側に同情の余地はある。OAやIT、ICTといわれていた時代からそうなのだが、提案してくる企業のレベルが低く、それでいて提示する価格が常識を超えて高い。これまで50年近く、上述のように言葉を変えて、売り込みがあったのだが、結局はキャッチフレーズだけの中途半端な製品ばかり押し付けられてきたという歴史だ。  

「変わる」ことに歴史的な経緯も

そもそも日本人には、「変わる」ことに対する根源的な恐怖や違和感のようなものがあるのかもしれない。考えてみると、我が国は何千年にも亘って、諸外国で確立した理論や技術、文物を輸入して、それを習い覚え、国内に広めていくというスタイルだったようだ。古くはインド、中国、近年ではヨーロッパ、アメリカからの輸入というわけだ。そうした理論や技術は、それらの国々において、輸入の前に十分に吟味されており、議論の余地がないものばかりであった。茶の湯や禅のように、我が国で変化させる、あるいは発展させるということはあったかもしれないが、多くはそうではなかった。

学校教育もそういう考え方のもとに構成されており、漢字の書き取りや計算問題は数多くこなし、草花や昆虫の名前は覚えるとしても、生物とはいかなる存在か、その進化とは何かなどを自分なりに考えてみるとか、異なる考え方を理解するとか、議論によってそうした問題を解決するということは重要視されてこなかった。そこで問われているのは、たいてい記憶の量や、せいぜいパターン認識力とその量である。

したがって、通常の学校教育の中では、与えられた命題に対して疑問を差し挟むことなどはできない。命題自体が間違っていることもしばしばあるはずなのだが、そういう問いかけ、投げかけはできない。

こういう考え方や体系の中では、「改善」やそのための努力は生まれにくい。「改善」を言い出すことは、先人たちが長年に亘って築いてきた知識や経験、先例に意見をしようとすることであり、組織やルールに対する反抗と見なされかねない。

また、仮に、改善すべき箇所や方策が見つかったとしても、それで新しい制度、新しいシステムを導入するということになれば、それを習い覚えるために、別の新しい努力をしなければならない。逆に、変わらないまま非効率なまま勤務を続けていても、我が国の組織や雇用主はそれに見合うだけの労働力は配置してくれるから、現場にとってみれば、目先のことだけで言えば、そのままの方が楽で都合がいいのだろう。

情報の収集と分析

冒頭にも書いたように、DXの意味、意義は、単なる業務の効率化だけではなく、診療に関する様々な情報を収集し、経営に資するようなヒントや、科学的な知見を得ることもそうだろう。しかし、このことも前述の知識、技術、文物の輸入の歴史に照らすと、日本人や日本社会の苦手な領域と言える。繰り返しになるが、わざわざ我が国に持ち込んでから、それをあらためて日本流に吟味検討するまでは必要なかったからだ。もっと言えば時間の無駄であった。

仮に情報を丁寧に収集したとしても、それをたとえば会計報告として「報告」し「記録に残」せばそれでよく、分析までして、改善にまでつなげることは求められなかったし、してもこなかった。

しかしこれからは違う。医療の高度化、複雑化の中で、カルテやレセプトのデータを収集し、分析し、そこからこれまでは知られていなかった、何らかの共通項やヒントを得る努力は重要だ。ところが、上述のように「輸入型」の教育しか受けていない人に、「データをあげるからさあ分析しろ」と言っても、何から手をつければいいのか、どう分析すればいいのか、全くわからないだろう。そもそも、我が国の高等学校では、行列、数列、微分・積分の重要性は教えても、統計や分析などは、数学の主流ではないとして軽視してきたからだ。

医療機関のDXが進んだとしても

さて、仮に、DXを含む改善を行って、効率化が進んだとしよう。しかし、それでは平均的な日本人にとっては、何だか誠意がないように感じるのではないだろうか。

我が国とその教育においては、努力すること、文句を言わず、耐えて続けること、それも誠意を持って行うことこそが重要と刷り込まれているからだ。 言葉を変えて言うと、脇目も振らずやったその精神こそが重要で、結果については二の次というふうに考えられてきたのではないか。つまり簡単に分析・評価して、その結果として効率よく仕事をすることの価値が評価されてこなかった。

こうなると、もはや道徳、倫理観の問題になってくる。努力の結果がどうなったかではなく、努力することそれ自体が「修行=人としての成長」であり、単なるプロセスではなく、結果そのものということになってくる。

大学に進んで、経済学の時間に、費用、機会費用、遺失利得、機会損失などの概念を学んだとしても、子どもの頃から前述のような価値観を植え付けられているので、両者の間に大きな乖離があり、業務の効率化などを考えるモチベーションは低いままだろう。

職場の風土

別の問題もある。DXを含む様々な方法で効率化をしたとしよう。 しかしここでも日本的な慣習がそれを邪魔する。早く終わったからと言って、それで退勤することはできず、村落協働体的な発想に基づいて、困っている、まだ終わっていない他者を手伝えということになる。つまり改善点を見つけ、提案し、実行し、そして効率化したとしても、改善を行った者にとってのメリットは限りなくゼロである。

状況を打破するには

ではどうすればいいか。 当たり前だが、前述の日本の文化的な土台や企業文化を変えるしかない。具体的には、改善点に気づき、その方策を考えた人、実際に効率化を達成した人を賞賛する文化をつくり出すことである。同様に、効率化によって、早期に終了、ないしは結果を出した人はその時点で「解放」する、ということである。

「結果の平等」を絶対視する社会・風土から少しでも前進して、評価に基づく処遇を行うということである。

おわりに

一連のことは医療の現場だけの話ではないのだが、それでも他の業種よりは深刻かもしれない。

◇◇佐藤敏信氏の掲載済コラム◇◇
◆「新型コロナ診療にかかる日本の医療と病院の現状について、正しい理解に基づく議論を期待する」【2022.7.26掲載】
◆「公衆衛生しか知らない医師だが、ウクライナ問題を考察してみた」【2022.3.29掲載】
◆「新型コロナ下の報道と衆議院選の結果から見えた日本のマスコミの限界」【2021.12.7掲載】
◆「コロナ禍は地域医療構想にも影響を及ぼすか?」【2021.8.3掲載】

☞それ以前のコラムはこちらから

2023.02.07