自由な立場で意見表明を
先見創意の会

見たんか?

細谷辰之 [日本医師会総合政策研究機構 主席研究員]

大きな声を出さなくても空気を切り裂くことはある。周囲の人をフリーズさせることもできる。その時も、抑えて、でも十分に怒気を含んだその声は、テーブルについていた全員を黙らせるのに力があった。言葉が通じなくても、伝えたい感情が伝わることもある。周りのいくつかのテーブルのフランス人も耳をそばだて沈黙していた。
「全く納得できません。もしそれが事実だとしても北大応援指導部OBとしては認めるわけにはいきません。」
 
僕はその夜、某省の人たちとモンパルナスのクーポールで夕食の卓を共にしていた。東京から「なんとか会議」に出席のためパリにやってきた一行であった。確か全部で6人だったと思う。北大応援団OBの人はその中でももっとも若い出席者であった。僕はその夜、1月前に帰国した際、北大を訪問した時の話を端緒に、あの誰でも知っているクラーク先生のBBAの裏話を披露していた。誰に吹き込まれたかは覚えていない。どこで手に入れた話かも皆目記憶にない。しかしその頃、そのBBAの話は僕のお気に入りの話題であった。話の概要はこうである。「クラーク博士はコロラド出身で、コロラドでは当時ゴールドラッシュであった。荒野の十字路で人が行き交うと、挨拶を交わし、別れ際に金鉱当てて金持ちになれよという意味でBBAと言ったのである。すなわちあれは、『青年よ大志を抱け』と訳されるのが正しいのではなく、『おめえら、あばよ』と訳されるのが正しい。北大の総長室を訪ねると、入り口の扉の上に、秩父宮御宸筆でBBAが描かれた扁額が掲げられている。訪問を終え、部屋を退出する人に『おめえら、あばよ』と言葉をかける北大からの別れの挨拶である。」とかなんとか。繰り返すが、もともと誰に吹き込まれた話か思い出せない。どこかで書かれたものを見たのか、テレビでやっていたのを見たのか、全く記憶が定かでない。しかし、この話が完全な「ガセ」であることは明白である。当時の僕も一片の「懐疑」を持てば「ガセ」であると容易に気がつく様な話であった。まず第一にウイリアム・スミス・クラークは1826年東海岸のマサチューセッツ生まれであった。1848年に始まったとされるゴールドラッシュは時代が被るが場所が異なる。ゴールドラッシュは西海岸のカリフォルニアで起こっている。アメリカ大陸一個分の隔たりだ。しかも、僕の「ガセ」のなかでゴールドラッシュはコロラドで起こっている。コロラドとカリフォルニアではユタ州とネバダ州の2州分の隔たりである。カリフォルニアとゴールドラッシュはセットで僕の記憶の中にあったはずである。よくよく記憶を辿れば、ゴールドラッシュが起きていたのがカリフォルニアであったことを知ってさえいた。それなのに、コロラドでも起きたか、実はコロラドで起きていたと記憶が書き換えられる。愚かな話だ。
 
あのパリの夜、華やかな活気にあふれたクーポールの食卓で、あの「ガセ」ネタはえらくうけた。テーブルは笑いに包まれた。あの静かだが怒気をたっぷり含んだ一言が発せられるまで。僕はもちろん、テーブルを囲む人はみんな、彼を宥めた。「とにかく」とか「とりあえず」とか「まあまあ」とか、何も生み出さない、何も解決しない、でも意味がないという点でとても役に立つ言葉を羅列して、その場を収めた。北大応援団OBもすぐに冷静になり、シャンパーニュのせいで熱くなったと照れ臭そうに矛を収めた。

何年かたってBBAには続きがあるという話を知った。

「Boys be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement,not for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.」
「青年よ大志を抱け、金を求める大志ではなく、己のための大志ではなく。名声などという儚いもののためではなく、人としてあるべき全てを求める大志を抱け」

これを知って以降、僕の話は進化を遂げた。「かつて、パリのクーポールで得意げにガセネタで笑いを取ったが、北大のOBで純粋な人を不快にさせてしまった。そしてさらにひどいことに僕の『話は完全に「ガセ」』で真実はこうだったんだからひどいことをしたもんだ。」という話に進化を遂げたのである。そしてそれを、またあちこちで披露してきた。今回も、この原稿でこのネタを書くつもりであった。ここまでを書くつもりであった。

しかし、ちょっと気になった。この話、本当の話なのだろうかと。自分はどこでこの話を仕入れたのか思い出せない。事実、クラーク先生の言葉は元ネタからだいぶ加工されていた。僕の頭の中でだいぶん変化を遂げていた。話自体、出典が明らかでないなら、真偽も明確ではない。

いろいろ調べてみた結果は、これは世間に流布しているたくさんの説の一つでしかなかった。しかも北大の公式見解では、こうしたことがクラーク先生の発した言葉であると断定をするのは極めて難しいとなっている。

日頃僕は言っている。「合理的な思考は前提を受け入れないこと、前提と思われていること、真実と思われていることもまず疑って検証しなければならない。デカルトが死んで400年、最低限必要な懐疑が持てない、我々、ヒトは、ろくな進歩もしていない愚かな猿に過ぎない」とかなんとか。そんな自分が、出所も定かでない話を確かめもせず、疑いもせずに信じ込んで拡散しまくっていたのである。恥ずべきことだ。きっと僕が垂れ流す話の中には多くの「ガセ」が含まれているのであろう。これからはデカルトに叱られないように、頭の中に格納された「ネタ」の検証をせっせと行いたいと思う。
 でも、ルネ・デカルトは本当にCogito ergo sumといったのだろうか?

僕の名古屋大学での同僚で現在名古屋の第一日赤の院長をしている錦見尚道先生の口癖は「見たんか?」だった。デカルトの書いたもの、発したとされる言葉、すべて榊マリコに検証を依頼した方がいいかもしれない。

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細谷辰之(公益財団法人福岡県メディカルセンター 主席研究員)

◇◇細谷辰之氏の掲載済コラム◇◇
「Homo Stultusと称される」【2021年8月24日】
「日本の医療のグランドデザイン2030の核心」【2021年4月27日掲載】
「出アフリカ記」【2020年12月29日掲載】
◆「行く道の選択と選択肢の選択」【2020年8月25日掲載】

☞それ以前のコラムはこちらから

2021.12.21