コラム

    • 行く道の選択と選択肢の選択

    • 2020年08月25日2020:08:25:10:29:28
      • 細谷辰之
        • 公益財団法人福岡県メディカルセンター 主席研究員

今年改めて気づいたこと

 
自律的自己決定力の大切さに改めて気づかされた。そして教育は迂遠であるが最も有効な手段であると思いを強くした。パンデミックは人類を種として進化させるとジャック・アタリが言っていた気がするが、僕にはこの気づきが今のパンデミックから得られた糧である。
 
 
 

毎年発している新入生へのメッセージ

 
名古屋大学の教授に任官した数年後から今日まで毎年ほぼ同じ中身のメッセージを新入生に発してきた。迂遠であるが最も有効な手段である教育の成果を少しでもという悪あがきの一つである。
 
いわく、「大学でやるべきことはなにか?」
最近の流行りは、実学、キャリア作り、課題解決型、即戦力化。つまり、すぐに役に立つ何かだ。でも、本当にそれだけでいいのだろうか?貴重な4年間、6年間だから、無駄にはしたくない。社会に出てからの自分の役に立つものを身に付けたい。そういう気持ちは分からなくはない。健全で建設的な気持ちであると言える。

でも、それでは一体、無駄ってなんだろう?「完璧なコストパフォーマンスは動物の属性であって人類の属性ではない。文明とは人類に与えられた無駄という恩恵から出来ている」かつて京大におられた、動物行動学の日高敏隆先生が京都先斗町の飲み屋で熱く語ってくれたことを思い出す。
 
大学でやる学問はすぐには役に立たないものが多いと感じるかもしれない。意味が明確に見出せないかもしれない。そんな学問を必死にやるから、人としての、奥行きと、広がりと柔軟性を養えるのではないか?生きていく上で、何かをやるときに、マニュアルがあれば、知識があれば、とりあえずはできる。

しかし、想定外のことが起きた時、応用を展開しなければならない時、マニュアルや、実学的知識では道に迷う。広い大地に一筋ついた道を辿り来るものは、道がなくなったところから足を踏み出すことができない。

役に立たないように見える(ひょっとしたら本当に役に立たないかもしれない)学問を必死にやる、興味を持ったテーマ、興味はないが押し付けられたテーマですら、必死に追い求め、壁にぶち当たり、結局ダメで引き返し、教官に叱られ、落ち込み、実験を繰り返し、文献を当たりまくり、暗中模索と骨折り損のくたびれもうけを幾度どなく経験し、書き上げる一本の論文。多分学問的には大して価値はなかろうが、君たちの人としての有り様を豊かにすることは間違いがない。ひょっとしたら知性さえ育んでくれるかもしれない。
 
まずは、好きな分野を見つけ給え。見つけたらとりあえずは踏み出し給え。運が良ければ興味が湧いて困るようなテーマが見つかるかもしれない。これはかなり辛いが充実しているという幸福な不幸を手に入れられる。これこそ、猿とは違った我々にとって最大級の幸福である。アダムのリンゴに感謝しなければならない。
 
とはいえ、何も見つからなくても、嘆くことはない。流れに任せてどこかの岸にたどり着くか、賽の目ででも分野を決めて、あるいはテーマを与えられるのでもいい。あまり面白くなくても、自分を騙し騙し、一本の論文の完成にたどり着けば良い。最初から、何かを見つけた人よりきっと大変な過程になるのは火を見るよりも明らかだが、その分、二つの余禄がもたらされる。より大きな達成感と、環境への順応力である。

偶然を捉え、うまく環境に適応してきたからこそ、齧歯類ではなく我々がここまで進化したと、誰かが言っていた。アダムのリンゴに感謝しなければならない。

大学は最も創造的で豊潤なモラトリアムをもたらしてくれるところでもある。必要な知識は動物でも学ぶ、役に立つことは社会に出てからでも十分得られる。大学という空間は無駄なことをせっせと憚ることなくやることのできる数少ない場所なのである。
 
次に、人間、一つの方向にだけ努力をしていると、厚みがなくなり、視界が狭窄し、バランスが悪くなる。(天才はそれでも良い。アイザック・ニュートン卿やアインシュタインや、モーツアルト並みの天才はここから先は気にしないでいい。ただし、モーツアルト並みの天才であれば、名大にこないで家に帰ってオペラを書いてくれ給え。ピアノコンチェルトでもいいよ。)
 
ここに、「部活」の意味がある。意義がある。名大で部活をやっても、褒めてもらう機会は滅多にない。我が相撲部は学外で随分メディアに露出し、その活動が紹介されてきたが、学内で評価とともに話題になることはあまりない。

戦績をあげても何かもらえるわけではない。我が相撲部は七帝戦で7連覇、学生相撲選手権でほほ国立唯一のBクラスを11年間保持するなど、結構な戦績をあげてきたけれど、道場すら建設してもらえず自力で建てた。入学した時点ではか細い全くの初心者が、必死に稽古し、体を作り合宿をやり、出稽古に行き四年かけてようやく戦力になってあげた成果になんのも見返りもない。でもだからこそ、意義がある。
 
多くの教官は部活に理解がないかもしれない。大学は部活にあまり熱心に援助をしてくれるわけではない。そのなかで、少ない時間をやりくりし、貧しい金をやりくりし、研究室と道場を往復し、バイトをやり、OBにたかる。その環境の中で、もともと経験や競技成績があったわけでもないのに、経験や競技成績があったやつに勝つための必死に努力をする。成果が上がっても儲からない。だからこそ意味はある。短期的経済合理性からすれば全く馬鹿げている。

しかし、世の中の多くの者が(法人であれ、自然人であれ)短期的経済合理性を遮二無二求めるあまり、長期的な経済合理性を失うのを横目に見てカラカラと笑うことができる。しかも馬鹿げていること、理不尽なこと一緒にやり遂げられる仲間が得られる。利益の共有は時として人類に試練を与える。

しかし、非合理や理不尽の共有は連帯感を産み、馬鹿げたことの共有は信頼を育む。これはまさしく人が最も成長できる、あるいは人類がなんとか進化できる適度に過酷な環境に他ならない。
 
大学に入ったら、必死に学問をやる。そして体育会の部活に入る。最後に言いたいのは、相撲部への入部の文化的価値についてである。

まずは、相撲をやるということ。急激に進行してきたグローバリゼーションの波は今や生活様式にまで及んでいる。未だにインドでシーク教徒はターバンをしているし、ほとんどのイタリア人は毎日パスタを食べている。しかし他方、多くの文化的地域性が失われ、均一で単色な標準化に取って代わられている。そのなかで、波にもまれながら生きていくために、自らのアイデンティティーに根ざした「売り」を作ること、独自性を持つことの意味は説明しなくてもわかるであろう。サッカーができれば、世界に仲間ができる。その上で、相撲ができれば、君達自身の文化と歴史を語り、見せる足場が得られるのである。実は、幸か不幸か、相撲をやると国内でもネタになる。

 相撲はとてつもないでかい異常な者にのみ許された競技ではない。初心者だけの集団であり続けてきた名古屋大学相撲部や、他の国立大学相撲部が、相撲推薦のない私立大学の相撲部がそれを証明している。大丈夫、心配せずに相撲部に来れば良い。
 
相撲が好きになれないのではないかと心配しているものもいるだろう。大丈夫、歴代名大相撲部員で元々相撲が好きだったやつはあまりいない。いやほとんどいない。最後まで好きになれなかったものさえいる。それでも、相撲部にはまり、名大相撲部として負けたくないから頑張り、いつしか悪くないなと思うようになる。最後まですきになれなかた部員も、引退試合の学生相撲選手権(インカレ)の両国国技館の土俵で相撲をやっててよかったと呟いた。相撲部にはそうさせる空気がある。心配しないでいい。
 
相撲という競技のイメージに閉鎖性を想像して心配しているものがいたとしても杞憂である。名大相撲部は今は休止しているが、名古屋城を借り切って素人相撲大会とサイケのRaveのコラボイヴェント「どすこい名古屋城Rave」をやったり、大須観音の境内で相撲大会を主催したり、北海道の合宿では地元の養護学校への出前相撲授業、三重の答志島での合宿では島のお祭りでの参加と手伝いなど、開かれているし、結構余計なこともやってきている。だから心配しないでいい。
 
「だいたい、人生短いのですから、心配で人生を浪費してどうするのですか!困ってからお困りなさい。十分間に合います」と僕の亡くなった祖母も常々言っていた。
 
進学先に名古屋大学を選び、名大生となった君たちに心の底から言いたい。四の五の言わずに汗をかける諸君、悪いことは言わない、相撲部に来給え。相撲部から名大を卒業していき給え。名古屋大学での君の時間はきっと違ったものに進化する。
 
名大が第一志望でなかったものもいるであろう。世間的には二番手の大学かもしれない。センターでちょっと失敗して京都と東京は厳しいからこっちを受けたものもいるだろう。そのなかで、何か感じるものが少しでもあれば、相撲部に来給え。
 
きっと、卒業式の日、学位記を手にした君たちは、ンターでちょっと失敗したことを「本当に良かった」とこころからほっとするに違いない。
 
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細谷辰之(公益財団法人福岡県メディカルセンター 主席研究員)
 

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