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新技術と向かい合う:量子コンピュータの実用に向けて

岡野寿彦 (NTTデータ経営研究所 シニアスペシャリスト)

企業や政府関係者から、「5G通信や量子コンピュータなど新技術の、中国におけるユースケースについて教えて欲しい」という要望を受けることが増えている。このうち量子コンピュータについては、日本においても今年9月に内閣府、経団連、経産省をオブザーバーとして「量子技術による新産業創出協議会」(Quantum Strategy industry Alliance for Revolution)(委員長:東芝 綱川CEO)が発足した。NTT、日本電気、日立製作所、富士通などIT企業のほか、トヨタ自動車、三菱ケミカル、キャノンなど製造企業、銀行、保険、証券など金融機関が会員に名を連ねている。同協議会ホームページでは「量子時代の到来を控え、その革新的な技術により、世界各国で安全・安心な暮らしや社会の実現に対する期待が高まっている」という基本認識を述べたうえで、「我が国が材料、デバイス、計測技術、コンピュータ、通信、シミュレーションをはじめとする技術の優位性を生かしたサービスの提供等を通して新産業を創出することで、グローバルで確固たる『量子技術イノベーション立国』を目指す」ことを活動目的として掲げている。このように官民が連携して新技術の開発や実用について検討することは、産業競争力および安全保障の観点でも重要だと考える。

ただし現時点では、「量子という開発途上の技術をどのように事業に活用するか模索中」との話を協議会の会員企業、特に金融機関から聞く。従って、量子技術開発やその実用で世界の先頭を走る米国と中国の取り組みを客観的に把握することは重要である。本稿は、中国における量子コンピュータの動向を紹介したい。

1.量子コンピュータとは?:新薬開発などへの活用が期待される

量子コンピュータについて、「重ね合わせや量子もつれと言った量子力学的な現象(物理的な現象)を用いて、従来のコンピュータでは現実的な時間や規模で解けなかった問題を解くことが期待されるコンピュータ」と定義することが一般的である。量子コンピュータが期待される背景には、これまでの2進法をベースとするコンピュータの処理能力向上を支えてきた「半導体集積回路の微細化」が限界に達しつつあることがある。また、コンピュータの消費電力が年々高騰していることも背景にある。

量子コンピュータは「組合せによる計算(多数の組合せの中から最適なものを見つけ出すこと)」が得意だとされ、新薬開発、金融・保険など商品開発(ポートフォリオの分析やリスク評価)、素材開発、最適化・効率化(輸送、生産工程やマッチング)などでの実用が期待されている。また、暗号解読などで既存コンピュータの限界を打ち破る可能性があり、国家の産業競争力だけでなく安全保障戦略にも与える影響は大きい。
米国は2018年に量子技術の国家戦略を策定し、19年から5年間で約1400億円を投資する計画とされる。国防総省などが毎年約220億円の投資をしている。またグーグル、IBMといった米国企業が世界の量子コンピュータ開発競争をリードし、アリババなど中国勢が追随する構図になっている。

2.量子コンピュータに関する中国の動向
(*公開情報をベースに一部ヒアリングを行った)

(1)中国政府の政策:科学技術イノベーションの強化
中国共産党政権は、2021年から25年の経済運営方針を定める第14次五か年計画で、「科学技術イノベーションの強化、技術の自立」、「サプライチェーンを自主的にコントロール出来る能力(双循環)」、「産業構造の高度化(資源を生産性の低い産業から高い産業へ移す)」、「生態環境の改善(生態系の質と安定性の向上、環境の質の持続的改善、グリーンな発展への転換)」、「安全保障の強化」などを重点政策として掲げた。特徴的なのは、第14次五か年計画で「安全」という言葉が150回以上登場し、国家の発展の前提条件として位置付けていることである。新型コロナ感染症や米国との技術覇権競争によって、中国政府の政策において「安全」が占める重要性が高まっていることが背景だと考えられる。そして、量子コンピュータ、AI、5G、ブロックチェーンなどの重要技術開発も、安全、サプライチェーン強靭化、伝統産業の再構築といった重要政策における活用に重点がおかれると考えられる。中国では政府が方針を示すと企業も政策の沿った投資を一気に行うために、重点技術の開発や実用が進みやすいという特徴がある。

中国政府は、2016年から5か年計画で量子コンピュータを重要プロジェクトとして開発強化する方針を策定している。約1.2兆円を投じて2000年に中国科学院(中国の自然科学の最高研究機関)の傘下に「量子技術研究開発センター」を開設したとされる。

(2)中国企業の取り組み:技術開発と実用化の相乗効果
BAT(百度、アリババ、テンセント)やファーウェイが量子コンピュータを開発して、クラウドで利用できるサービスを提供することで、実用化に向けた基盤を整えている。アリババは、2015年に中国科学院との合同ラボ「量子計算実験室」を立ち上げ、さらに17年には先端技術と基礎科学の研究機関「達摩院(DAMO)」を創設して、量子計算を主な研究課題の一つに掲げた。達摩院の「量子実験室」は、次世代移動体通信ネットワーク技術とクラウドコンピューティングおよびアプリケーションとの融合を主要テーマとし、重要技術の開発パートナーを世界から公募している。また、テンセントは、2017年から量子計算の研究を開始し、新薬開発を主要テーマの一つとしている。

BATやファーウェイの量子コンピュータ開発に共通する特徴として、世界の一流人材を招聘していることがある。例えば、ハンガリー系アメリカ人の情報工学者Mario Szegedy氏がアリババ「達摩院」に加入、百度の量子研究所(2018年設立)の所長にはシドニー工科大学の量子ソフトウェアおよび情報センターを創設した段潤堯教授が就任した。もう一つの特徴は、医療、工業・品質管理、金融、教育、行政、モビリティなどの重要領域でサービス体系と技術体系からなるフレームワークを作り、量子コンピュータ、5G通信、AI、ブロックチェーン、位置情報など重点技術の「実用化の場づくり」に積極的に取り組んでいることである。

[事例]保険業界の取り組み
中国の保険業界では、平安保険を筆頭に、伝統的な保険事業の収益を活かして、医療・健康、カーライフなど保険ニーズがあるシーンで自ら事業を行い、保険商品の開発につなげようとしている。保険商品だけだと顧客との接触頻度は限られるが、医療・健康など顧客が日常的に関心を持つ領域でサービス展開することで、営業マンが顧客とのコミュニケーションを取りやすくする狙いがあるとのことである。そして、量子コンピュータによる「組合せ最適化」を、顧客のニーズ仮説、商品開発、顧客とのマッチングなどに活用できないか実験が行われている。このように、量子コンピュータなど新技術を応用して、金融と医療、モビリティといった分野を融合したサービス開発が進められている。

3.最後に

日本の量子技術の研究開発は一定水準にあるが、実用化では米国、中国に後れを取っている。その中、民間を主体に官が支援する形で「量子技術による新産業創出協議会」が発足するなど、実用化に向けた態勢を整えつつある。日本企業の強みである「高品質を実現する業務プロセス、これを支える組織の継続性・チームワーク」を活かして、特徴のある実用化を進めていくためにも、米国、中国などの動向、特に新技術実用化のカギとなるポイントや課題について謙虚に学んでいくことも必要だと考える。

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岡野寿彦(NTTデータ経営研究所 シニアスペシャリスト)

◇◇岡野寿彦氏の掲載済コラム◇◇
中国プラットフォーマーのヘルスケアビジネス:収益化に向けた課題と取り組み【2021.6.22掲載】
◆「中国の個人情報保護法制からの考察:データを活用したイノベーションとプライバシー保護のバランス」【2021.3.9掲載】
◆「アリババ『相互宝』(相互見守り型医療共済):デジタル化による中国社会の変容」【2020.11.17掲載】
◆「中国医療テックの動向と課題」【2020.8.18掲載】
◆「プラットフォームと国家デジタルインフラ」【2020.4.28掲載】

2021.11.23