コラム

    • 永年ドライバーへの奨め(第2回/全6回)

    • 2019年06月04日2019:06:04:02:27:27
      • 大久保力
        • 自動車ジャーナリスト
        • 元レーシングドライバー、レジェンド レーシングドライバーズ クラブ 会長、日本自動車ジャーナリスト協会&日本外国特派員協会 所属

第1回からの続き)
 

◆雑踏に見るニンゲン――道路交通とは何か

 

普段の移動に車が多い私も、電車利用が結構あるのですが、JR、地下鉄問わず新宿や東京など大きな駅構内の物凄い雑踏には圧倒されるばかりです。地方の友人達が「東京への時間はたいしたことないが、電車から降りて改札出るのが一苦労」と、こぼします。
 
怒涛の如く行きかう人並みをかき分け、ぶつかり、進路を塞がれ、ウロウロまごつく人の光景は悲壮でもあります。それらの人の背後から、何をノロノロ歩いてんだっ! とばかりに舌打ちし、押し退けんばかりに追い越して行く人、スマホ見ながらも水中の魚なみにスイスイ対面者をかわし、肩に掛けたでっかいトートバッグをぶっつけながら人混みを擦り抜ける仕事絶頂らしきキャリアウーマン風、大柄な体躯で威嚇するがごとく対面者にはだかるオッサンなどなど。
 
そこには歩行困難者、車椅子、高齢者、幼年者などは障害物でしかないのでしょう。残念ながら、それらを庇おうとする光景は見られません。これが他人とぶつからない程度の混み具合なら違うのでしょうが、人は群集状態にあると、自分の目的とする方向へ我先に移動する自我の世界になるようです。
 
時おり、このような雑踏を上手に歩くのが苦手な私は思うのです。「人が硬い防具を身にまとっていたら、ぶつかろうが、こすろうが、大柄な者・強い者の勝手気ままな振る舞いの場になるだろう。
 
道路上も自動車の運転者はまさに硬い防具で身を包み、我先に急ぐ世界だから雑踏の人間像と同じ」結局、道路の交通構造は強弱大中小の力が微妙に絡み合っているのですが、日本では同じ道路を走っている者同士の連帯感があるように思っているニュアンスがありますが雑踏同様と思われた方が無難です。
 
ただ、大中小の車、身体むきだしの二輪車などが混走する路上ですから、ぶつかったら、ぶつけられたら、怪我したらさせられたら、不安な気持ちが辛うじて路上の混乱を防いでいるということでしょう。こう述べますと「いやっ、そうではなく、譲り合うマナーが育ってきたからだ」の反論もあるでしょう。
 
確かにモータリゼーション社会が始まった1960、70年代辺り、渋滞や合流個所で強引に割り込もうとする者、そうはさせじ、と、前車や左右の車間をジリジリ詰め、ブロックする真剣勝負?があちこちで見られ、怒鳴りあい、喧嘩も多かったのは事実です。そのような光景、今は少なくなりましたが、それは譲り合いの普及か、それとも長いものには巻かれよの諦めか、変なことに拘わりたくない無関心がドライバー心理にありますから……結果としては良いことで、マナーアップと見たほうが理知的なんでしょう。
 
しかし、いつの時代でも大きな高級乗用車や周囲を威嚇する改造車で自己を誇大顕示する者、中央車線を我が物顔で占拠する大型貨物車など居るものです。それらの運転者はクルマの存在感、強さ、車内の状況が良く見えない不気味さを武器にしているのです。
 
そうゆう輩は車から引きずり出せば小心な連中が多いのですが、道路上の強弱・優劣は厳然たる事実ですから残念ながら相互依存や思いやりが行き届いた道路交通の社会になるにはまだまだ時間がかかるでしょう。
 
ともかくも、二輪四輪問わず人間の体力では不可能な力を発揮する道具(車)の操作を覚えますと、人は、その機械力に助けられているのでなく、あたかも自己の力が大きくなった、強くなった気になるのか、普段の性格、生身の時と異なる感情になるケースが多いようです。私の周囲にも運転席に身を置き、ハンドルに手を添えると妙に神経が高ぶる知人、友人がいるものです。
 
自動車やオートバイの運転には日常生活に無い動作が必要ですから、それへの良い緊張なら未だしも、普段とは違う感覚が生じるのかもしれません。あるいは、普段は表に出ないその人の性格か本性が露出するのでしょうか、自己の意のままに走れるクルマには人間の内面に深く関わる要素があるようです。
 
 

◆法令遵守なら絶対安全、という保証はない

 

道路交通の場は人間と車の微妙な間柄の個々の寄り集まりですから、その主役が人間であるにしても、生身の人間同士が直接に触れ合う時の常識や良識、行動が通じない、が言い過ぎであるならば、通じにくい世界なのです。
 
それ故に交通社会の拡大とともに道路交通法も厳しくなるのですが、法律を厳守すれば事故に合わないという保証はありません。時おり、車の後部に〝赤ちゃんが乗っています〟や、枯れ葉マークと揶揄される高齢運転者のステッカーなど見かけますが、残念ながら、そんな気遣いを期待するほどの優しさなんかありません。
 
これが仮に自動車の車内がガラス張りのような構造で、運転者や同乗者の姿が見えるのであれば互いに意思の疎通が図れ、路上の社会革命になるでしょうが、要するに運転するのは人間であっても人と人との繋がりが希薄なのです。
 
時には道路を譲られたりした時にハザードランプやヘッドライトの点滅などで謝意を伝えるのが多くなって結構なことですが、昔、モータリゼーションなんて言葉もなかった時代、何かの謝意を示す場合、窓から伸ばした手を大きく振るなりの仕草があってホンワカとしたものでした。
 
でも、今はエアコン発達でウインドウ閉めっぱなしですから……。要するに路上というのは実に世知辛い社会であることを強く認識して頂くことを前提に事故無く、可能な限り安全に交通の場と付き合うにはどうするのか、自分で追求し解決への努力をしなければならないということになります。
 
 

◆最大の事故防止策は自己防衛:まずは「せっかち」対応策

 

この数年来、メディアに騒がれる高齢運転者の交通事故の代表例は『逆走・追突・ブレーキとアクセルの踏み間違い・暴走・漫然運転』となりますが、これは何も高齢者でなくても起こし易い事故なのです。
 
先に、運転者の千差万別な心理や特性に触れましたが、大中小強弱の乗り物が混走の路上を移動する運転者の、五感に基づく運転操作を惑わす要因の第一は、いわゆる『せっかち』です。
 
運転者の多くは走り出すや、少しでも早く目的地に着きたい心理に駆られるものなのです。これが走り出すにつれ日常の冷静さに戻れば問題無しですが、焦りの精神状態が急ハンドル・急ブレーキ・急加速・前車へのイライラなどで誤操作、事故の要因になるのです。
 
ならば、どうすれば良いのか?ですが、技術的・構造上での解決、防止策はありません。昔から人は齢をとると気短になると言いますが、昨今、スーパーの売り場や駅、バス乗り場etcの街中、若い世代と高齢者が言い争い、もめごと起こす光景が多いように見えます。
 
尤も、お湯ジャーで食べられるインスタント食品、今ではパソコンの反応が何秒早いとか、電車が1,2分遅れれば御免なさいの車内アナウンスなど、何でも早く直ぐにの社会リズムで育てば辛抱なんて言葉は私語になってしまいますね。
 
高齢運転者にもキレる爺さん婆さんが増えているとすれば、人は齢を重ねるにつれ、気は長く心は丸く、人生円熟の境地に至れる修養を改めて積み、自分なりの危機管理策を考え出し実践するしかありません。そうは言うものの私も運転中に危うい目に合ったのは二度三度ではありません。
 
その原因を考えれば、やはりセカセカ運転であり、そのセカセカの誘因は〝時間に追われていた〟が一番多く、また〝燃料タンクが空になりそう〟ではセカセカ+ドキドキですから、今では充分な時間と充分な燃料に気を配っていますが、ついウッカリは消えないですね。
 
それで、私も何とかセカセカしないようにする方策はないものか考え、自らを落ち着かせる暗示として、運転席ダッシュボードに関西弁の〝ぼちぼち行こかー〟って記したテープをユーモア的に貼り付けましてね、焦りがでたり、いらつく時、それをチラッと見ては〝そうそう焦ったら損々〟とばかり冷静になれるものです。
 
 
まあ精神修養なんて高度なものでなく、人それぞれの運転に適したモットーをお持ちでしょうし、また、運転注意を自覚させるようダッシュボードにご家族の写真など置かれるのも一策ですが、やはり直接的に自分に言い聞かせ、効果あるのは〝ことば〟なのです。
 
要するに焦りやいらつきが事故につながるという基本が軽視されているのは間違いありませんので、ご参考までに。
 
次回は、「逆走」防止対策や「自動ブレーキ」の現実について解説します。
 
 
 
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大久保 力(自動車ジャーナリスト)
 
元レーシング ドライバー
レジェンド レーシングドライバーズ クラブ会長
日本自動車ジャーナリスト協会&日本外国特派員協会 所属

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