コラム

    • 連累――戦後70年談話によせて

    • 2015年09月01日2015:09:01:09:28:56
      • 河原ノリエ
        • 東京大学大学院情報学環・学際情報学府 特任講師

「責任」は私達がつくった。
しかし、「連累」は私達を作った。
 
これはテッサ・モーリス=スズキの「批判的想像力の危機」という時事論文のなかの言葉だ。
 
この短い論文は、1999年10月からの1年間、一橋大学客員教授として、東京に赴任していたころの彼女の眼を通した日本の政治風景を描写したものである。
 
「連累」という私達にとって聞きなれない概念について、彼女はこう丁寧に述べている。
 
「連累」とは以下のような状況を指す。わたしは直接に土地を収奪しなかったかもしれないが、その盗まれた土地の上に住む。わたしたちは虐殺を実際に行わなかったかもしれないが、虐殺の記憶を抹殺するプロセスに関与する。わたしは「他者」を具体的に迫害しなかったかもしれないが、正当な対応がなされていない過去の迫害によって受益した社会に生きている。(テッサ・モーリス=スズキ『批判的想像力のために』平凡社ライブラリー より 抜粋)
 
近年、わが国は、歴史認識を巡る問題で近隣諸国と緊張が高まり、海外からみても非常にわかりにくい国になってしまっている。
 
テッサ・モーリス=スズキは、総理のオーストラリア訪問時の4月、キャンベラでのインタビューに答えて、「戦後70年談話」を言葉のゲームにするなと述べていた。こうした世界からの様々な眼差しの中、8月14日閣議決定を経て出された「戦後70年談話」は発せられた。そのフレーズは、当たり障りなく全体に曖昧さのなかにぼんやりと浮かんでいるような印象を受けたのだが、以下のくだりにはどうしても、飲み込むことのできない棘が刺さっている気がする。
 
「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。」
 
あの戦争がいかにして認識され、記憶されてきたのか、責任をどう考えてきたのかをこの表現の曖昧さが如実に物語っている。真正面から向き合うとは何を指し示すのか。
 
謝罪を続ける宿命とは背負うものではなく、私達が戦後社会で受益した足元に深く埋め込まれているもののはずである。
 
歴史研究が依拠する場とは別に、過去の記憶は、各地に断片的に鮮やかに存在する。かつて南京で出逢った老婆は、家族を殺され、日本兵に強姦され、生き延びるために、身売り同然の結婚をした。老婆は、日本から訪れた私に、「日本人を絶対に赦さない。でも、生き延びることが何よりも大切だから、私はそれでも生きた。」
 
その言葉は、私が過去から託されたバトンだと今でも思っている。戦後の長い歳月のなかでも、過去は消えてはなくならない。その後も、がん連携で訪れるアジア各地には、まだあの戦争を忘れることのできないひとたちの暮らしが繋がっている事実に、これまで何度となく、ゆきあたった。
 
大学で続けている連続講座「アジアでがんを生き延びる」では、今期は特に戦後70年ということで、アジアとの関係性を深く掘り下げて考える講義が続いた。
 
7月に行った田原総一朗による「日本はアジアどう向き合っていけばいいのか?」においては日本人女子学生から「いつまで私達は謝り続けなければいけないのか?」という意見が出てきた。それに対しアジアからの女子学生は「同じ世代の人からそんな意見が出てくるなんて信じられない」と応答した。
 
いままで私達は、こうした若い人たちの声のぶつかり合いに真摯に向き合ってきていなかった事実をいまさらながら深く受け止めた。我々は前の世代の人たちから、こうした話を聞いていない世代であり、過去に対する責任を直視するプロセスをみたこともないのだ。
 
今年は、戦後70年という節目であり、わが国の平和をどう守るかというある種の内向きの高揚感のなか、例年になくあの戦争を考えようという機運が高まっていたようにはおもうが、歴史の語り方の構造に少し変化が出てきている。
 
戦後70年談話は「過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。」という曖昧な表現ではあったが、テッサ・モーリス=スズキが「歴史への真摯さ」を必要不可欠なものとして挙げているよう、次の世代が、アジア各地のネーションを横断する物語や疑問に、自らがよって立つ足元を見つめながら深く考える空間創出の契機となってほしい。
 
いまこそ、「連累」というこの言葉の意味を語っていきたいとおもう。「連累」とは継続する不正義の構造に抗した社会的政治的参加なのだから、私たちが今を生きる場所に深く埋め込まれた関係性を直視しなければならない。それは過去の歴史事実だけではないはずだ。なぜ、自らが受けてきた歴史教育がこんなにもアジア諸国で異なり、それらの齟齬が、今を生きる自分たちの感情や行動をどう形成し、どのように自分たちをつくってきているのか。
 
こういうときにこそ、底力をみせるのが人文の知である。しかしそれが、昨今の大学改革で風前の灯となっていることは、なによりも恐ろしいことだ。グローバル化の中、めまぐるしい状況の変化に対応して、領域を超えて、みえないものに想像力を働かせるリベラルな知的体力をつけなければならない。やがてやってくるであろう戦後80年を生き延びていかねばならないのだから。
 
 
 
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河原ノリエ(東京大学大学院情報学環・学際情報学府特任講師)

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