コラム

    • しのぶやま ―県立大野病院事件無罪判決確定を受けて―

    • 2008年09月02日2008:09:02:14:49:24
      • 澤倫太郎
        • 日本医師会総合政策研究機構
        • 研究部長

 

■無罪確定 

 8月20日に無罪判決言い渡し、引き続いて8月28日の検察側控訴断念が公表され、加藤医師逮捕から数えて2年6か月におよぶ対検察との法廷闘争にようやく終止符がうたれた。 晴れて加藤克彦医師の無罪が確定されたのである。 

 本件に関しては、弁護団立ち上げの経緯、そして「医療刑事事件における特別弁護人(注1)」という異例の立場で法廷の弁護人席に座し、対検察との白刃きらめく真剣での斬り合いという貴重な経験をさせて頂いた。 

 この事件の総括はいずれ、どこかに書き留めておかねばならないと考えている。 

 そしてこの間、本サイトをご覧の多くの会員諸氏のみならず、日本中の診療科の垣根をこえた多くの医療従事者から多大のご支援をいただいたことに心から深謝したい。 

 また同時に、改めて亡くなられた患者さんに対し、哀悼の意をささげたいと思う。 

■しのぶやま 

 医療刑事裁判の特別弁護人という極めて珍しい立場で公判に参画するようになってから、15回目の福島入りとなった平成20年8月20日。 

 朝から快晴。午前10時開廷に合わせ、弁護団の常宿となった駅前のホテルから加藤医師も含め、2台のタクシーに分乗して福島地方裁判所へ。 

 岩波「世界」8月号掲載の拙稿(「県立大野病院事件みえてくること」医療への刑事司法介入は何を招くか)にも記したが、地裁は福島市花園町、市のほぼ中央に位置する信夫山(しのぶやま)の南側に広がる裾野に位置する。 

 タクシーは、上空から見下ろせばひょうたん型をした信夫山の裾野を沿うように東北新幹線の高架線をくぐり、花園町に向かう。花園町は普段は閑静な住宅街だがこの日は違った。 

 7台のテレビ中継車、幾重にも居並ぶ報道陣のカメラの列。地裁正面門の少し手前でタクシーを降り、加藤医師と弁護団、一団となってカメラの砲列の前を地裁正面玄関に向かう。 

 これは第1回法廷のときからの報道陣との取り決めで行われている定例行事だ。しかし今回は報道陣の数も、それを取り巻く人々も数が違う。 

 あとで聞けば27席の一般傍聴席に対して788人もの人々が抽選に並んだという。福島地裁に面した通りをもう500メートルも進めば、緑豊かな場外風景を誇る福島競馬場に行き着く。 

 平成17年4月9日開催の第9競走でJRA史上最高額の1000万円を超える高額配当を生んだのが他ならぬこの福島競馬場だ。このときの的中投票数はわずかに9票だったというが、地裁正面玄関前はそれにも勝るとも劣らない人々の熱気と興奮に包まれていた。 

 地裁の背後の信夫山(しのぶやま)を改めて仰ぎ見る。これまでに何節の春夏秋冬に、この山の稜線を仰ぎ見てきたことだろうか。 

 信夫山(しのぶやま)は標高こそ高くはないが、奥州三山にも数えられる東北を代表する歌枕の聖地でもある。 

 しのぶやま 忍びて通う道もがな 人の心の奥も見るべく 

 加藤医師に対してひっきりなしにたかれるフラッシュのなか、業平(ありひら)のひそみに倣って、裁判官のこころの奥に想いを馳せる。

 福島地方裁判所の弁護人控室には一躯のこぶりな彫像が置かれている。目隠しをした女性が右手に剣を、左手に天秤を持つ「正義の女神」の像だ。 

 剣は法の厳しさ、司法の権威・権力を、天秤は法の公正・ 公平を、目隠しは先入観や予断を持たないで裁く、法の理想を表現したものだとベテランの弁護士から説明を受けた。 

 ならばこの大野病院事件、正義の女神の心の奥には果たしてどのような真実が照らし出されているのだろうか。周囲の喧噪をよそに、こころは驚くほど冷静で平穏な入廷となった。 

■判決申し渡し 

「被告人は無罪」 

 裁判長の冒頭の言葉と同時に、傍聴席の記者たちがわれ先に1号法廷を飛び出していく。法廷の外廊下からもざわめきが漏れ聞こえてくる。 

 弁護人席前列左、もっとも傍聴席に近い位置に座っていた自分には、しばらくはその喧噪で裁判長の言葉が聞き取れない。目の前の被告人席に座る加藤医師は眼を伏せたまま、動かない。 

判決内容は以下のようであった。 

判決内容1:業務上過失致死について 

(1)予見可能性について 

被告人の手術直前の予見、認識 ⇒ なし 
前回帝王切開創への癒着の可能性を排除せずに手術に臨んでいたが、癒着の可能性は低く、5パーセントに近い数値である徒の認識を持っていた。 

被告人の手術開始後の予見、認識 ⇒ なし 
本件は子宮後壁の癒着であるから、被告人が有していた前壁の癒着の予見、認識が、段階的に高まって癒着剥離中の癒着の認識に至ったと考えることはできない。 

癒着胎盤と認識した時点での大量出血の予見可能性 ⇒ あり 
癒着胎盤と認識した時点において、胎盤剥離を継続すれば、現実化する可能性の大小は別としても、剥離面から大量出血し、患者の生命に危機が及ぶおそれがあった。 

判決内容2:業務上過失致死について 

(2)剥離中止義務の有無について

 (臨床に携わっている医師に刑罰を科す基準になる医学準則は) 

当該科目の臨床に携わる医師が、当該場面に直面した場合に、ほとんどの者が その基準に従った医療措置を講じているといえる程度の、一般性あるいは通有性 を具備していなければならない。 

医療を中止する義務があるというためには、当該治療行為を中止しない場合の 危険性を具体的に明らかにした上で、より適切な方法がほかにあることを立証しな ければならない。

本件では、 
・癒着胎盤の剥離を開始した後に剥離を中止した臨床例が提示されていない 
・検察官の鑑定人は腫瘍専門で、癒着胎盤の治療経験に乏しい 

結論 剥離中止義務なし 

判決内容3:医師法違反について

 「異状」とは法医学的にみて,普通と異なる状態で死亡していると認められる状態。 

診療中の患者が診療を受けている当該疾病によって死亡したような場合には「異状」の要件を欠く

本件では、 
癒着胎盤に対する診療行為として、過失のない措置を講じたものの容易に胎盤が剥離せず、剥離面からの出血により、失血死。 

結論 「異状」にあたらない。 

■ それぞれの家族の苦しみ 

 ほぼ弁護側主張に沿った無罪判決申し渡しの瞬間、3名の裁判官に向かって左端の傍聴人席に座る亡くなられた患者さんの父上は、目線を下にむけたまま、じっと動かずにいた。 

 一方傍聴席右端に座る被告側の家族席では、加藤医師の父君がじっと裁判長を見据えたまま、同じく動かずにいる。 

 父君の隣席に座る加藤医師の奥方は、おさえきれない安堵の涙をハンカチでしきりにぬぐいながら、視線が合った自分にそっと頭をさげた。 

 愛する者を失った患者家族の深い慟哭はわかる。私事で誠に恐縮だが、私は7年前に女房を亡くした。乳癌だったが、30代の若い発病の病勢には最善の医療をもってしても、あらがえなかった。 

 私自身が医師であるにもかかわらず、いくら病没だとわかっていても、残された2人の子供たちと滂沱の涙を抑えることができなかった。医師とはいえ、男などというものは情けないもので、逆に屈託のない子供たちの笑顔にどれだけ励まされたか知れない。 

 いくら医学が進歩しても、それは決して万能ではない。アンビバレンツな論理かもしれないが、最善を尽くしても、助けられない命があるからこそ、医学は前へ進むのだ。それが医療現場の真実なのである。 

 つらいのは加藤医師のご家族も同じだろう。加藤医師の逮捕・身柄拘束の期間中に身重の奥方は長男を出産された。周産期の専門家の立場から言うが、分娩に際してこれほど重い精神的なストレスはあり得まい。 

 県警の佐々木賢刑事総務課長は無罪判決後にメディアに対し「県警としては法と証拠に基づいて必要な捜査をしたと考えている」とコメントしているが、なにもこの時期を選んで加藤医師の身柄(がら)をとることはなかっただろう。 

 とにかく今は「よく、なにもトラブルなしに」と改めて彼女の頑張りを称賛したい。一方で、お父上は町の小さな診療所を閉院し、起訴休職の身の長男家族とともにただ静かに司法の判断を待ち続けた。 

 彼らの生活を心配した地元医師会の諸先生がたが弁護費用とはまた別に募金を集め、「生活の足しに」と奥方に申し出たほどだ。奥方は「お気持ちだけで、もうありがたく、とても使えません」と断ったという。 

 そこまで加藤医師とその家族を追い詰めたのが、「社会正義」を旗印にした検察官の無謬性(むびゅうせい)だとすれば、無罪判決に安穏と看過してはいられない。 

■ 加藤医師に着せられた汚名はそそがれたのか? 

 無罪は確定したものの、加藤医師の汚名はいまだそそがれている訳ではない。 

 1.まずは行政処分(減給1ヶ月の懲戒処分)の取消しである。 

 茂田士郎福島県病院事業管理者は、無罪判決後のメディアに対し、 「判決が確定すれば,復職ということになる。(すでに出されている処分につい ても)重大な事実誤認があった場合には取消もできる。」とコメントしている。 

2.次は刑事補償である。刑事補償法では以下のように定められる。

第1条 刑事訴訟法による通常手続(中略)において無罪の裁判を受けた者が(中略)未決の抑留又は拘禁を受けた場合には、その者は、国に対して、抑留又は拘禁による補償を請求することができる。

第4条 抑留又は拘禁による補償においては、(中略)、その日数に応じて、一日千円以上一万二千五百円以下の割合による額の補償金を交付する。 

 本件では、逮捕日の平成18年2月18日から保釈日の同年3月14日までの合計25日間の未決の抑留がある。よって刑事補償の金額は最大でも、31万2500円余に過ぎないが、問題は金額ではなかろう。 

3. 法的にはさらに国家賠償の問題がある 

(請求認容例としては名古屋地方裁判所平成18年3月16日判決 平成14年(ワ)第5493号があり、「検察官の公訴提起が国家賠償法上違法とされるのは,検察官が当該被告人に公訴事実について有罪判決を期待し得るだけの合理的根拠が客観的に欠如しているにもかかわらず,あえて公訴の提起をした場合に限られるものと解される。」 ) 

 しかし医療者が最も衝撃を受け、加藤医師、その家族のこころにも深い傷を残したのは、平成18年4月14日、福島県警による加藤医師逮捕の富岡署に対する本部長表彰であろう。

以下の福島県警警察署長部署表彰を見ていただきたい。 

福島県警 警察署長会議文書  部 署 表 彰 (平成18年4月14日)  
  【本部長賞状】 (13 所属12 件) 
※福島北警察署・福島市内における持凶器強盗致傷事件検挙功労
※郡山警察署 ・郡山市内における連続女性暴行事件検挙功労(郡山北署、機動捜査隊と合同捜査) 
※郡山北警察署・郡山市内における・連続女性暴行事件検挙功労(郡山署、機動捜査隊と合同捜査) 
※須賀川警察署 ・鏡石町地内における連続放火事件検挙功労 
※小野警察署 ・モバイルオークション利用のブランド商品販売名下の詐欺事件等検挙功労 
※会津若松警察署・会津若松市内における持凶器強盗致傷事件検挙功労 
※会津坂下警察署・柳津事業協同組合における多額業務上横領事件検挙功労 
※南会津警察署・無登録貸金融業者による組織的な貸金業規制法及び出資法違反事件検挙功労 
※いわき中央警察署 ・ファーストフード店を対象とした広域金庫破り及び出店荒らし事件検挙功労 
※相馬警察署・引っかけ交通事故による保険金詐欺事件検挙功労   ・枇鴨居管内における初日の出暴走事件検挙功労 
※機動捜査隊 ・郡山市内における連続女性暴行事件検挙功労〔郡山署、郡山北署と合同捜査) 
※交通機動隊・相馬署管内における初日の出暴走事件検挙功労 
そして 
※富岡警察署・県立大野病院における業務上過失致死及び医師法違反事件検挙功労  である。 

 連続強姦事件、連続放火事件、広域金庫破りなどの凶悪犯罪に並び、加藤医師検挙が本部長表彰されているのである。 

 この表彰が取り消されることなくして、加藤医師の汚名はそそがれない。私はそう考えている。 

(注1) ほとんどの場合、弁護人は弁護士の中から選ばれるが、法律以外の特定の分野に精通した弁護人が必要な場合は裁判所の許可を得て弁護士資格のない者でも弁護人として選任することが可能である。これを特別弁護人という。特別弁護人は、地裁において主任弁護人となれない制限を除き、訴訟法上において弁護士の弁護人と同等の権利を持つ。高等裁判所、最高裁判所では特別弁護人は認められていない。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 

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