自由な立場で意見表明を
先見創意の会

「あなたは海坊主が見えますか?」

岡部紳一 [アニコム損保 監査役・博士(工学)]

メガネ店の店頭で視力検査表をよく見かける。つい片目をつぶって測ってみるが、視力2.0まで測定できる。驚異的な視力を持っているというケニヤの狩猟民マサイ族は3.0~8.0、中には10.0を超える人もいるらしい。地平線の彼方の獲物をいち早く捉えるのに必要な能力なのであろう。

さて、水平線の彼方に浮かび上ってきた“海坊主”を、あなたは見ることができますか?

海坊主は各地に伝承のある海の妖怪で、妖怪漫画家水木しげるの故郷境港市の商店街にかわいらしい海坊主ブロンズ像もある。

組織のリスクマネジメントでは海坊主は喩えであるが、遠くに浮かび上がって出現してきたなにかが、将来重大な損害や影響を与えるかもしれない。これを“エマージングリスク”と呼ぶ。まだ十分なデータがなく分析も評価もできない、よく分かっていないリスクである。

昨年10月ISO(国際標準化機構)が、このエマージングリスクについてのガイドラインISOTS31050 (注1)を出版した。

リスクマネジメントの方針を規定したISO規格ISO31000:2018(JISQ31000:2019)が既に出版されているが、このエマージングリスクのガイドラインは、このISO規格を補足する文書として位置づけられる。リスクマネジメントでは、明確に特定できるリスクを対象として、分析・評価して、対応策を決定する。エマージングリスクはその前段階というべきか、まだよくわからない“リスクの芽(兆し)”を対象としている。

“組織が今まで認識または経験しなかったリスク”や、“既存の知識が役立たない、新しいまたは経験したことがない”ことなどが例示されている。私たちの組織の置かれた環境や状況が変わっていく中で、新たに “リスクの芽(兆し)” が出現してくるのにいち早く気づき、前広に対応を準備しておくことが求められる。このガイドラインはエマージングリスク= “リスクの芽(兆し)”を捕らえて、どのように従来のリスクマネジメントにつなげていくのかを解説している。

エマージングリスクの発生する可能性のある状況の変化=リスク源として、次の6項目を挙げている。①自然災害(異常気象)、②IoT/モノのインターネット(サイバー)、③抗菌薬耐性(健康)、④見えない人工知能(AI)、⑤自律型機械(サイバー、AI)、⑥気候変動-移行リスクである。この6項目の示す状況変化が、私たちの組織にどのような影響を及ぼす可能性があるかをイメージできますか?

6番目の“気候変動-移行リスク”は聞きなれないかもしれない。移行リスクは、後述する気候変動に関連するグルーバルなタスクフォースTCDF(注2)の提言の中において、気候変動に関するリスクとして、異常気象などによる物理的リスクと共に取り上げられ、注目された。温室効果ガスの排出を削減して低炭素社会へ移行する過程で、社会や経済活動の変化に伴って、法や規制、テクノロジー、市場が変化するリスク、そのような対応に遅れた企業のレピュテーションが低下するなどのリスクを意味する。

2016年COP21(パリ会議)で、地球温暖化対策として温度上昇を2℃に抑える数値目標が決められた。国連や各国政府が様々な施策を実施していることはご承知のとおりであるが、日本政府も2020年10月2050年カーボンニュートラルを目指すと宣言し、2021年4月に2030年度に温室効果ガス46%削減の野心的な目標を表明した。

気候変動と自然環境保護の分野で、グルーバルな影響力をもつ二つのグルーバルなタスクフォースがある。TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)とTNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)である。気候変動または自然関連の財務情報の開示を推進しているが、企業の情報開示が地球環境の保護とどのような関係があるのか不思議に思われるかもしれない。TCFDが地球温暖化の原因である温暖化効果ガスの削減のため、TNFDは陸・海・淡水・大気の四つの領域から構成されると定義する自然環境と生物多様性の保護のために、社会や経済活動への資金の流れを「ネイチャー・ポジティブ」へ移行させていくことを狙っている。上場企業に温暖化対策及び自然環境・生物多様性に対する取組み状況を有価証券報告書などで開示させることは、単なる企業情報の開示に止まらない。その取り組みや対策実施に遅れた企業は資金融通などでも不利となり、信用力を低下させる恐れが出てくるので、企業に関連対策を計画実施し、かつそのガバナンス体制も確立していることを報告しなければならなくなる。

この開示の動きはすでに始まっている。2021年6月東証の上場企業に適用されるコーポレートガバナンス・コードが改訂され、サステナビリティ情報の開示が義務化された。また、昨年の内閣府令の改正で2023年3月期決算企業から有価証券報告書へのサステナビリティ情報の開示が義務化された。

本稿執筆中だった2024.2.16付日経新聞の第一面トップに「脱炭素 各行に開示義務 業種別融資や排出量 主要国2026年にも」の記事(注3)が載った。主要国の銀行監督当局で構成されるバーゼル銀行監督委員会の決定を伝えている。主要国の銀行監督当局が、各銀行に開示義務を課し、融資先の脱炭素の取組みをウォッチ・支援させることを狙っている。これに続いて、TNFDの提言する自然環境・生物多様性に関する取組みの開示も求められるものは必至であろう。

エマージングリスクのガイドラインにおいても、移行リスクが明記されているように、TCFDの考え方や手法が採用されている。また、TCFDとTNFDが開示を求める企業の気候変動及び自然環境と生物多様に関する取組み状況を報告するにあたって、「ガバナンス・戦略・リスク管理・指標と目標」の4項目の推奨項目が示されている。これはISO31000のリスクマネジメントの観点で見ると、それぞれの分野に限られているが、組織のリスクマネジメントの枠組みとプロセスそのものである。

エマージングリスクでは、上述の6項目が示すように気候変動や自然環境・生物多様性に関するリスクに限定されない。組織の外部と内部の状況の変化から生じるあらゆる“リスクの芽(兆し)”に敏感に気付くために全方位の継続的なスキャニングが求められる。

そして、そのリスクの芽(兆し)が組織にどのような影響与え、どの程度のインパクトを与える可能性があるのか分析、評価して、対策(戦略)を立てなければならない。これがエマージングリスクのリスクマネジメントであると、もったいぶった言い方をしなくても、経営環境の変化を敏感に感じ取り、そのマイナスを抑え、プラスの伸ばす経営戦略を立てて実践するのは、そもそも経営者の本来の職務である。

しかしながら、状況の変化に気づいても、わが社に具体的どのようなリスクが生じ、どのような影響が出るのか、想定することはなかなか難しい。そこで、エマージングリスクの例示された6つのリスク源を自社の状況及びビジネスモデルに当てはめて、どのような具体的なリスクが発生し、そのリスクがどのようなものか、どのような影響を与え、どのような対応が必要となるかをブレーンストーミングすることから始めることがよい。このシナリオ分析(注4)方法は、TCFDで詳細に解説されているが、本ガイドラインでも推奨されている。

このガイドラインでは、エマージングリスクの対処法の解説に止まるのではなく、組織のレジリエンス耐性を向上させるメリットがある。組織内外の状況変化にいち早く気づいて、潜在的なリスクに特定、分析、評価、そして対応策を検討する体制を構築することで、組織として「予測能力」「抵抗力と回復力」「適合力」が養われる。つまり、これが、本ガイドラインの目的であり、「レジリエンスを向上させるためのエマージングリスクの管理のガイドライン」でタイトルとなっている。

最後に、もう一度お聞きします。

あなたの組織は、外部内部に潜んで頭を出し始めた“海坊主”を見つけられるように“視力”を上げていますか?

【脚注】
(注1) ISO/TS31050レジリエンスを向上させるためのエマージングリスクの管理のガイドライン
(注2) TCFDとは
(注3) 「脱炭素 各行に開示義務 業種別融資や排出量 主要国2026年にも」日経新聞オンライン(2023.2.16)【会員限定記事】
(注4)TCFDを活用した経営戦略立案のススメ~気候関連リスク・機会を織り込むシナリオ分析実践ガイド~

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岡部 紳一[アニコム損保 監査役・博士(工学)]

◇◇岡部紳一氏の掲載済コラム◇◇
◆「殿様とガバナンス」【2023.11.9掲載】
◆「医療安全管理の透明人間」【2023.6.8掲載】
◆「うそつき脳と企業リスクマネジメント」【2022.12.27掲載】

☞それ以前のコラムはこちらからご覧ください。

2024.03.07