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先見創意の会

福島原発事故訴訟 危険性のグラデーション

桐山桂一 ジャーナリスト

福島第一原発事故を巡る二つの判決を考えてみたい。

一つは当時の東京電力の旧経営陣に対する株主代表訴訟で、七月に東京地裁が旧経営陣に約十三兆円の支払いを命じる判決を出した。前代未聞の金額でもあり、大きなニュースになった。

もう一つは原発事故の避難者が起こした損害賠償請求訴訟で、六月に最高裁は想定外の津波ゆえに、「対策をしても事故は防げなかった」と結論づけて、原告の請求を退けてしまった。こちらも大きく報道された。

同じ原発事故をめぐる訴訟でありながら、原告の明暗を分けた。ポイントとなったのは、一口で言えば、政府の地震調査研究推進本部が二〇〇二年に公表した地震予測「長期評価」と、それに基づき東電子会社が出した「最大一五・七メートルの津波可能性」の試算についてである。

株主代表訴訟では、「長期評価」も巨大津波の試算も、「相応の科学的信頼性がある」と東京地裁が判断した。つまり当時の福島第一原発の津波想定は五・七メートルしかなかったから、「長期評価」により赤信号が点灯したに等しく、すぐに対策を講ずるべきだった。実際に巨大津波の試算も出た。

だが旧経営陣は土木学会に検討を依頼するだけで、対策は放置してしまった。それゆえ判決は「対策の先送りで著しく不合理だ」と厳しく指弾したわけである。

津波対策を怠った旧経営陣の責任を重くみた判決である。十分な安全対策なしに原発稼働ができないのは当然である。「万が一」にも備えないと、原発では取り返しのつかない甚大な被害をもたらしてしまう。
東京地裁の判断は、この当たり前の現実を踏まえて、原発事業を担う経営陣の重い責任を改めてクローズアップする判決だったといえる。

原発事故から判決まで約十一年四カ月。「後世に残る名判決」と声が上がるほど適切な判断だったと評価したいと思う。

旧経営陣の不作為はあまりに悔やまれる。このツケは個人で背負いきれないほど重い。同時に全国の電力会社経営陣にも、国策といえども安全をおろそかにすれば、巨額の賠償責任を負いかねない危機感を喚起することになろう。

ちなみに株主代表訴訟とは、取締役の経営責任を株主が追及し損害賠償を請求する訴訟だ。それゆえ、原告たる株主側が勝訴しても、賠償金を得るのは会社側である。

さて、それとは正反対の立場を取ったのが、最高裁判決だった。

原発事故は被災者たちに「ふるさと喪失」などの深刻な事態を招いから、他県などに避難を余儀なくされた人々が訴訟を起こした。最高裁は東電の責任は認めつつ、焦点だった国の責任を認めなかった。

最高裁の理屈は「実際の津波は想定より規模が大きく、仮に国が東京電力に必要な措置を命じていたとしても事故は避けられなかった可能性が高い」とした。いわゆる「想定外の津波」だったゆえに、事故は不可避との論理である。

さて、これは正しい判断であろうか。株主代表訴訟の判決を下敷きにしてみると、最高裁の判断には数々の疑問を持たざるを得ない。

まず国の「長期評価」について最高裁は軽く考えてはいないだろうか。マグニチュード(M)8クラスの津波地震が三十年以内に発生する確率は20%としたのが「長期評価」である。実際に起きた東日本大震災の規模はM9.0であり、ほぼ想定どおりと考えてよい。

さらに「長期評価」が出たのが二〇〇二年であり、それを起点とすると、年を追うごとに、危険度の認知のグラデーションが高まってくることがわかる。

例えば「長期評価」を受けて、原子力安全・保安院(当時)が東電に対し、津波高の計算を求めていた。当時の津波想定は五・七メートルしかなかったから当然の対応であろう。保安院内部でも後に組織横断的な勉強会を開いてもいる。

二〇〇四年にはインドネシアのスマトラ島沖で巨大地震があった。遠く離れたインドのマドラス原発にまで津波が押し寄せ、運転不能になる事態が起きた。ポンプ室が水没したのだ。

二〇〇六年には勉強会には電力会社も参加させ、五・七メートルを超える津波だとマドラス原発と同様の事態を招く恐れが、関係者の間で把握されたとされる。
つまり巨大地震が起きると、原発には大津波が押し寄せ、建屋が水没する危険がある―。そのような事態は予想できたはずではないのか。

ならば防潮堤を高くしたり、原子炉建屋の防水対策をしたり、電源車を高台に配置するなど、全電源喪失の事態に陥らないための対策は十分、考えられるではないか。

実際に日本原子力発電の東海第二原発(茨城)の場合は、二〇〇八年段階で、最も危険な想定で盛り土や防水工事などをし、津波被害から免れた現実がある。

東電の子会社が最大一五・七メートルの津波可能性を示した試算を出したのも二〇〇八年のことである。東電社内では大きな衝撃が走ったという。少なくとも原発施設の防水対策を講ずることは可能であったはずである。

ところが、「一五・七メートル」という数字が東電から保安院に伝えられたのは、驚くなかれ、二〇一一年の東日本大震災の「四日前」だった。そして、その四日後に実際に福島第一原発に一五メートルを超える巨大津波が襲ったのである。

危険性のグラデーションは年を経るごとに高まっていたのは明らかであり、究極的には原発の運転停止という判断もありえたはずである。いろいろな対策を取ることは十分可能だったと思う。
最高裁のいう「仮に東京電力に対策を命じても事故は避けられなかった」との判断には到底納得しがたいのは、そのような理由からだ。

さて、原発事故をめぐっては、刑事裁判もある。勝俣恒久元会長ら旧経営陣は、刑事裁判では大津波を予見できなかったとして一審判決は「無罪」(控訴審中)だった。

こちらも「長期評価」を低く評価し、「危険のグラデーション」への配慮が足りないと思う。少なくとも最高裁がいう「対策をしてもムダ」とでも言うような論法を許すならば、地震の巣と呼ばれる日本列島の上で原発を運転させること自体がもはや犯罪的とも思う。

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桐山桂一(ジャーナリスト)

◇◇桐山氏の掲載済コラム◇◇
「3K政治」に抵抗して【2022.1.6掲載】

2022.09.01