都市とは何か?
林憲吾 (東京大学生産技術研究所 准教授)
ここ数年、大学院で「都市とは何か?:1万年の歴史と未来」という講義を行なっている。1万年以上前に東部地中海沿岸のレヴァントで定住をはじめた人類が、農耕を開始し、大規模な集落をつくるに至る時点から、現代のメガシティの成立までを駆け足で紹介するものだ。
この講義の最終回には、いつも二人の知人にゲストにお越しいただいている。ひとりは、チンパンジーやボノボなど、類人猿の研究をされている山本真也さん。もうひとりは、ダライラマの思想について研究をされている辻村優英さん。
お二人にはそれぞれ「類人猿から考える都市」、「仏教から考える都市」というお題でお話しいただいている。こちらの無茶ぶりに快く応えてくださっているのだが、なぜ都市をテーマに類人猿なのか、仏教なのか。それにはこの講義で設定している都市の定義が深く関わる。
食の外部依存性
都市研究の難問といえば、都市の定義である。講義タイトルにもしているが、そもそも都市とはどのような存在なのか、という問いに誰もが納得する答えは用意されていない。
無論、人口が多いとか、過密であるとか、都市に関する性質はさまざまに議論されてはいる。ただし、世界共通と呼べる定義には至っていない。
たとえば、2007年に都市人口が世界人口の半数を超えた、と国連が報告したが、ここでの都市人口は、各国がそれぞれに設定した都市人口の寄せ集めである。
あるいは、都市の起源を探る考古学ではどうか。ひとつの見解として5300年ほど前にティグリス・ユーフラテス川下流域に成立したウルクにおいて都市の成立を認めている。これは、城壁や目抜き通りなどの都市計画があること、指導者の館や軍事施設など行政機構が整備されていること、神殿などの祭祀施設があること、これら3つをもって都市の成立を判断している(小泉龍人『都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る』講談社選書メチエ、2016)。
他方、この講義では私は都市を次のように定義している。すなわち「都市とは、都市だけでは成り立たない存在」だと。
都市という存在は、それ自体では自立しえない。そもそも他者に何かを依存することで発展した存在ではないか。そう考えている。
では、何を依存しているのか。それは食料である。人類の生存の根源である食料に関して、その獲得や生産を外部に依存し、食料生産者とは異なる活動を行う。そのことによって社会全体を豊かさにする。こうした食の外部依存性が都市の本質ではないだろうか。
講義では、これを簡易に説明するのに、2種類の人間のピクトグラムを用いている。ひとつは食料生産をする人を示す灰色に塗られた人物。もうひとつが食料を外部に依存する黒色に塗られた人。
灰色の人と黒色の人、実際はそう単純に二分されるわけではないが、この黒色の人を都市的存在とみなしたらどうだろう。そして、黒色の人たちにたくさん囲まれ(同一地域内の非食料生産者の割合が高く)、しかも、より遠くの灰色の人たちに食料を頼れば頼るほど(フードマイレージが大きい)、その地域は都市の度合いがより高いとみなそう、というのがこの定義の骨子である。
そう考えると、いまの東京などはやはり相当に都市性の高い場所である。
ちなみに、土いじりもしなければ、釣りもせず、家で料理もほとんどしない私は、すっかり真っ黒な人である。
そう思って人類史をみると、狩猟採集の時代から現代都市に至るプロセスとは、ほとんどの人が食料の獲得や生産に従事している状態から、食の外部依存性を飛躍的に高めていく歴史である。
と同時に、食料生産という外部がなければ存在しえない本来は弱い存在である都市が、むしろ都市なしでは生きられないと感じさせるほど強い存在となり、ひいては食料生産の現場での環境負荷の増大や、あるいは過疎化による衰退などを招く、という倒錯の歴史でもある。
したがって、食料を介してつながる都市とその外側との関係の再構築が、SDGs時代のいまだからこそ求められる。そのきっかけになればと、あのような定義で都市を振り返る講義を行なっている。
人類に備わる都市性
この定義に従うならば、都市の誕生は、ある意味で最初の黒色の人物、つまり食料を外部に依存する人の登場である。では、それは誰かを突き詰めていくと、実は人類はそもそもが都市的な存在ではないか、と思わずにはいられなくなる。
他の霊長類と比較して、人類の特徴としてこれまでしばしば指摘されてきたのが「共食」である。ゴリラやチンパンジーの大人は基本単独で食事をするが、人類は仲間と一緒に食卓を囲む。さらに、各自が自ら手に入れた食料を食べるのではなく、それを家族や仲間とシェアする。つまり食事の共有が日常的に行われる。
この性質は、人類の二足歩行とも関連づけて語られることがある。ゴリラ研究の泰斗である山極寿一さんの著書『家族進化論』(東京大学出版会、2012)では、人類にとって二足歩行が有利に働いたことのひとつに、オーウェン・ラブジョイ氏の「食物運搬仮説」を取り上げている。
豊富な食料があった熱帯雨林から食料の乏しいサバンナに追い出された人類は、より広範囲に食料を求める必要があった。さらに樹々に囲まれていない見晴らしのよいサバンナは外敵に襲われるリスクも高い。この条件に有利に働いたのが二足歩行ではないかというのである。
二足歩行のメリットのひとつは手が余ること。それは一人分以上の食料を抱えて運ぶことを可能にする。したがって、家族や仲間を安全なところで待機させ、一部のものが歩き回って食料を獲得して、それを持って帰って分け与えることができる。ようするに、二足歩行が食料取得の分業を可能したのではないか、というのである。
そう考えると、これはもう小さな都市である。食料を他者に依存することが人類の生存戦略だったといえなくもない。いわば都市は人類の根源的な知恵ではないか。そんな風にも思えてくる。
だとすれば、依存の否定ではなく、理想の依存。それがこれからの都市のあり方を考える鍵ではないか。
果たして食料の共有は人類の特徴なのか、そして、良好な依存関係はいかに維持されるのか。これらの問いを考察したく、冒頭のお二人をゲストに招いているのだが、詳しくは次回のコラムで続けたい。
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林 憲吾(東京大学生産技術研究所 准教授)
◇◇林憲吾氏の掲載済コラム◇◇
◆「看取り・悼み -コロナ禍の気がかり- 」【2020年7月14日掲載】
◆「砂漠の知恵比べ」【2020年3月31日掲載】
◆「水際のレジリエンス」【2019年11月19日掲載】
☞それ以前のコラムはこちらからご覧ください。