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先見創意の会

平沼直人 (弁護士、医学博士)

オリンポスの果実

父が亡くなるちょうど一年前,5月の大型連休に,母の故郷の高知を訪ねて四国へ,親子三人で旅をした。

「秋ちゃん。
 と呼ぶのも,もう可笑(おか)しいようになりました。熊本秋子さん。」
そんな書き出しで始まり,読者をして,「あんなに初めから終(しま)いまであの女が好きだ好きだって,いい放しの小説は珍しい」,あるいは,「活字をピンセットで拾って食べちゃいたい」と言わしめた,田中英光の『オリンポスの果実』のヒロインが,高知の人で,それで父は母と結婚したというのだから,父はロマンチストだった。
上の文章も,父の書棚に残された新潮文庫(昭和26年9月30日発行・昭和42年11月10日改版,解説 河上徹太郎)から書き写している。
 

梼原へ

高知市内では,土佐芸者を呼んで料亭で遊んだり,母の生家がある須崎では,津野でお茶農家を営む親戚の家を訪ねたりして,過ごした。
既に病が篤(あつ)かった父は,いつものようにはしゃいだり,のべつまくなしに喋ることはもうなかった。

「梼原(ゆすはら)に行ってみたい」。
そう父が言った。
「なんちゃないき,いかんぜよ。家やら店なんかがこじゃんと綺麗になっちゅうがだけよ」と伯父は反対した。
「梼原といえば,龍馬脱藩の道で有名だし,南国土佐にあって雪深いところらしいので,物見遊山もいいでしょう」,スマホを見ながら私が助け舟を出した。

出掛けてみると,梼原は,なるほどよく整備された街並みだった。町内には,隈研吾氏の建築作品も散在している。
立派な歴史民俗資料館に入ってみたが,父はあまり興味を示さず所在なさげにしていた。

「直人君,土佐源氏はどこのあたりかなあ」
「とさ げんじ ?」
「直人先生ほどの物知りでも知らないことがあるんだ。」と,この旅では珍しくふざけながら微妙な物言いをした。
「それは何ですか?高知の色男?」
「盲目の乞食が女性遍歴を饒舌(じょうぜつ)に語る。岩波の,宮本常一(みやもとつねいち)の忘れられた日本人。」

その土佐源氏が橋の下に住み着いていたという場所がどこにあるのか,資料館の職員に聞いてみたが,年寄りならひょっとして分かるかもしれないというくらいのつれない反応だった。
父は残念そうだった。

土佐源氏

『土佐源氏』は,我が国民俗学の泰斗(たいと)である宮本常一(1907-81)の人気作で,岩波文庫の『忘れられた日本人』(1984年)のうちの一篇として収められている。
宮本常一という人は,柳田國男(1875-1962)に見出され,渋沢栄一(1840-1931)を祖父にもち一流の経済人でありながら民俗学に傾倒し宮本ら研究者に援助を惜しまなかった渋沢敬三(1896-1963)の「学者にならず,発掘者となって欲しい」との言葉どおりに,日本列島の隅々まで歩き続け記録し続けた人である。

「わしは80年何にもしておらん。人をだますことと,おなご(女)をかまう事ですぎてしまうた。
 かわいがったおなごの事ぐらいはおぼえているだろうといいなさるか?かわいがったおなごか……。遠い昔の事じゃのう。」
と,馬喰(ばくろう)の老人は,赤裸々に語り始める。
10歳で子守りの少女たちと悪い遊びをするようになって以来,沢山の女性経験を積みながら,役人のお嫁さんや庄屋のおかたさま(奥さん)といった忘れられない女たちと深い情を交わす物語り。

「相手は身分のある人じゃし,わしなんどにゆるす人ではないと思うとったが,せんたく物をほしている手伝いをしたら,つい手がふれて,わしが手をにぎったらふりはなしもしなかった。
 秋じゃったのう。」

一読して,その文学性を感じる。
土佐源氏というネーミングの妙。
その名に恥じぬ好色。

ただ,これで話はおしまいではない。
土佐源氏の原作,『土佐乞食のいろざんげ』が発見され,作者不詳のこの地下出版物をものした男こそ,宮本常一その人だというのである(井出幸男『宮本常一と土佐源氏の真実』梟社2016年。同書には『土佐乞食のいろざんげ』が収録されている)。

私たちの知らなかった土佐源氏は,「実意に満ちた切実で具体的,かつ躍動的で圧倒的な性表現」(上記井出)が爆発していた!
凡百(ぼんぴゃく)の性描写がかすむ写実。
女たちを恍惚とさせ悦びを与える性技。
性が溢れ,生が満ち,全てが肯定されている!!

金比羅参り

高知からの帰りには高松に寄り道して,こんぴらさん(讃岐金刀比羅宮)にお参りすることにした。
長い石段を,父は病身をおして,ゆっくり,それでいて人柄どおり軽やかな足取りで上っていった。失われつつあるが,紛れもない生命力があった。

広い境内には宝物館があり,そこには真偽はともかく森の石松が奉納したという名刀“五字忠吉(ごじただよし)”が収蔵されている。

実家にいた頃,学生だった私は,草臥(くたび)れ果てた父の肩や腰にマッサージ機をかけるのを日課にさせられていて,その時に退屈しのぎに聴いていたのが,父の好きだった二代目広沢虎造の浪曲,清水次郎長伝や,古今亭志ん生の古典落語のカセットテープだった。

「お父さん,ちょっと回り道だけど,見に行ってみましょうか?石松の金比羅代参で,怪しいシロモノだけど次郎長の刀があります。」
「〽親の譲りの五字忠吉」とすかさず返すかと思ったが,父は,黙ったまま,申し訳程度に笑って,土佐源氏を口にしたときのような活気は見られなかった。

◆appendix◆
1.フーコーの『性の歴史Ⅳ 肉の告白』の邦訳が今年,遂に発行される予定だそうである。(朝日新聞DIGITAL記事 2020年4月) 
2.「エロティシズムの根底において,私たちは炸裂を体験している。爆発の瞬間の暴力を体験しているのだ。」(ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』ちくま学芸文庫2004年
3.無意識を性の観点から精神分析という科学ないし医学にまで高めたのが言うまでもなくフロイトである。
4.『岩波講座 哲学12 性/愛の哲学』(2009年)
『岩波講座 現代7 身体と親密圏の変容』(2015年)
各巻に収載されたいずれの論考も勉強になるが,性をオブラートに包んでしまって,その刺激と醍醐味を感じることはできない。
5.性の自叙伝として,森鴎外『ヰタ・セクスアリス』新潮文庫1949年
脱稿間際,同書について,池澤夏樹氏の「いたずらなものではなく,真摯(しんし)きわまる作だった」との文章に接した。(『また会う日まで』:99第七戒 朝日新聞2020年11月11日)
6.DVD『紀伊國屋書店評伝シリーズ 学問と情熱 未来へ贈る人物伝 第15巻 宮本常一 民衆の知恵を訪ねて』(2008年)
 宮本常一の温厚で誠実な人柄が偲ばれる。
7.俳優の坂本長利は,半世紀にわたって,土佐源氏を一人芝居で演じている。(朝日新聞DIGITAL記事 2018年5月

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平沼直人(弁護士、医学博士)

◇◇平沼直人氏の掲載済コラム◇◇
「成年後見人の医療同意権」【2020年11月5日掲載】
「ガウディ」【2020年6月30日掲載】
「死」【2020年3月17日掲載】
「アメトラ」【2019年12月10日掲載】

☞それ以前のコラムはこちらからご覧下さい。

2020.11.24