自由な立場で意見表明を
先見創意の会

被災地で考えた「生業と暮らし」の関係

滝田 周 [(株)東京法規出版 保健事業企画編集2部 編集長]

震災前から進んでいた駅前の衰退

青森県八戸市から宮城県石巻市に至る太平洋岸を指す「三陸海岸」の名称は、この長大な海岸線が、陸奥・陸中・陸前という三国にまたがっていることに由来する。戊辰戦争直後に制定されすぐに消滅したこれら令制国のなかで、いちばん南に位置するのが陸前国(りくぜんのくに)。その域内にいくつかある港町のうちの一つが、私の故郷だ。師走の初めの週末、その故郷へ、法事のために帰った。

駅近くのホテルに投宿したが、周辺一帯は、東日本大震災に伴う津波のせいで、かつての街並みを偲ぶよすがはまったくない。あの日、多くの人々、いや人間だけでなくイヌやネコ、そこに居たもろもろの命が、強烈な引き潮に持っていかれた。商店や住宅も然りである。私は東京の職場にいて、その光景をテレビで観ているしかなかった。沖に向かって流されていく家のカーテンが、ひらひらなびいていた。家が悲鳴を上げているようだった。何か得体のしれない巨大で無慈悲な暴力を、可視化したかのような光景だった。

あの日から12年が過ぎた。駅周辺の主だった店は、新しくできたショッピングモールなどに移り、スポーツ用品店だけが、駅前の同じ場所で再建していた。中学入学の春、軟式テニス部に入った私は、ここでラケットとテニスシューズを買った。当時のラケットはまだ木製が主流で重かった。鯨筋でできたガットは、ちょっとでも濡れると伸びたり裂けたり切れたりしたから、突然の雨が何より恐怖だった。切れたガットを結んで使い続けたりもした。自分がひどく昔の人間に思えてきた。当たり前だ。40年以上も前の話なのだ。

津波は、国鉄時代から何度も廃止が取り沙汰されてきたローカル線も破壊した。その復旧策としてJR東日本は、不通区間の鉄路をバス専用道とするBRT(Bus Rapid Transit)を提案、沿線自治体もこれを受け入れた。「鉄道よりもずっと低コストで、早期の復旧が可能」というJR側の説明に反対する理由は、突き詰めれば「鉄道への郷愁」以外なかったのだと思う。結果、鉄道敷地からレールとバラストと枕木が撤去され、アスファルト舗装が施された。かつてのホームには、一般家庭にあるようなサンルームみたいな簡便な待合室が置かれた。駅舎は再建されなかった。

その替わりというべきか、地元自治体は駅前に、「交流施設」を新たにつくった。観光案内所のほか、多目的スペースや会議室を備え、在りし日の駅前広場を模すように、タクシー乗り場とロータリーも置かれている。かつての賑わいを取り戻したいという意図は明らかだが、いかんせん人がいない。前述したように大半の店が戻っていないし、BRTも上り下り合わせて1時間に2~6本しかない。ただ、これでも震災前よりだいぶ増えたのだ。バスは列車に比べ、運行の融通が利く。しかし肝心の乗降客は数人程度、ゼロのときも珍しくない。何時間も客待ちしているタクシーを利用する人はさらに少ない。観光案内所にも客は見えない。オフシーズンのせいだろうが、ハイシーズンでも、内陸にある新幹線駅から鉄道とBRTを乗り継いでここまで来る観光客は、どれぐらいいるのだろう? 震災復興で道路もずいぶん良くなった。大半は自由が利くレンタカーを借り、同じ駅でも「道の駅」のほうに寄るだろう。かく言う私も、今回も含めレンタカーばかりで、鉄道+BRTという選択肢は、ハナからない。「交流施設」を新たに駅前につくるというメンタリティは、それこそ「鉄道への郷愁」ではないか。

クルマ社会の進展と鉄道の凋落が止まらない地方では、「駅とその周辺に人は集まる」という常識が通用しなくなって久しい。人口減少がそれに拍車をかける。駅周辺の衰退は、震災前からすでに始まっていたのだ。津波は、それでもなんとかとどまっていた個人商店を駅前から完全に葬り去り、人々が駅周辺に足を運ぶ理由もまた、完全に消し去った。さらに2020年には、BRT区間の全駅が、鉄道駅として正式に廃駅となった。JR東日本が同区間の鉄道事業廃止を国交相に届け出たのだ。実際には何も変わらないが、象徴的な意味は重い。

もう二度と、あの街並みの中にこの身を置くことはできない

その一方で賑わいを見せているのが、ショッピングモールだ。広い駐車場を備え、生活雑貨から食料品、本・雑誌、クリーニング等々、あらゆるものをワンストップで購うことができる。前述したように、主だった商店はここで新たに店を構えた。商店街を復活させるには、こうした形をとる以外ないのだろう。便利であることは間違いない。ただ、昭和の空気の中で人格形成した私は、このような風景に居心地の悪さも覚える。その理由を考えてみたら、「生業(なりわい)と暮らしが切り離されている不自然さ」に行き着いた。

昭和の商店街は職住一体で、その家の生業はもちろん、暮らしの細部までも、意図せず客にさらけ出していた。店にいると赤ちゃんの泣き声が聞こえたり、夕餉の匂いが漂ってきたりした。レジに行ったら、テレビで相撲を観ているじいさんが見えた。家人がおらず、普段は奥の間に引っ込んでいるばあさんが仕方なく出てきて、要領を得ない受け答えに泣きそうになったこともある。そんな経験には、大げさに言えば、人生の本質につながる何かを、子どもに理屈抜きで感得させるような、「しっかりとした質量」があった。ショッピングモールでは、そんな質量のある経験はできない。便利で快適だが、何も残らない。何かが足りない。暮らしが生業から切り離され純粋培養されている、ニュータウンと呼ばれる街に行ったときも、似たような感じを抱くことがある。

「しっかりとした質量」の、せめて残滓でも感じ取ることはできないかと、かつての商店街を歩いてみた。が、見渡す限り更地で、自動車教習所のコースのようになってしまった街区を歩いていたら、それどころではなくなった。もう二度とあの街並みを見ることはできない、あの街並みの中にこの身を置くことができないという事実が、今さらながら胸に強く迫り、苦しくなってきたのだ。それは悲しみというより怒り、それも憤怒に近い感情だった。比喩でなく、地団駄を踏みたい気分だった。

ふと見上げると、山々が見えた。海からすぐに立ち上がる低山が、幾重にも重なっているリアス式海岸の山々である。住んでいたときには、なんの変哲もない景色だったが、ここを出て初めて、よそではあまり見られない景色であることに気が付いた。「山だけは変わってない」。おかげで少し冷静さを取り戻すことができた。

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滝田 周 [(株)東京法規出版 保健事業企画編集2部 編集長]

◇◇滝田周氏の掲載済コラム◇◇
「ゲーテと頼近さんとサンシャイン60と」【2023.9.19掲載】
「私の死は考えない」【2023.5.30掲載】
「ワークライフバランス雑感」【2023.2.14掲載】

☞それ以前のコラムはこちらからご覧ください。

2023.12.26