自由な立場で意見表明を
先見創意の会

コロナ禍の中でわが国の感染症の歴史を知る

佐藤敏信 久留米大学教授

筆者は週の半分、福岡県の久留米市にいる。今回のコロナ禍の中で、ふと思うところがあってこの地にかかる感染症の歴史をたどってみた。

久留米の北約25km、博多(福岡市)と久留米の中間、やや博多寄りに太宰府がある。筆者は小学生時代の一時期をここで過ごした。ご承知の通り、古代の大陸や半島との往来の玄関口であったところである。そのため、しばしば感染症流行の入り口ともなっていたようだ。

天平の疾病大流行と国の対応

有名なところでは天平の疫病大流行(天平7~9年、735~737年)がある。続日本紀(しょくにほんぎ)に記録が残っている。14世紀イタリアでのペスト対策としてのquarantina(検疫)の話はよく聞くが、それよりもずいぶん昔、しかもかなり正確な記録で驚く。 遣唐使か遣新羅使を通じて豌豆瘡(わんずかさ/えんとうそう)=痘瘡が持ち込まれ、これが平城京へも伝播し、多くの貴族にも感染し、政治的にも大混乱に陥ったという。

興味深いのは、当時既に疫病のモニタリング制度が導入されており、国内で疫病が発生した際には朝廷への報告が行われるよう公式令(くしきりょう)で定めてられいたということだ。

死亡率もかなりのもので、正税帳(しょうぜいちょう)に基づいて推計すると、天平9年には全国で100~150万人が死亡したという。当時の人口が450万人ということだから、実に全人口の1/3が死んでいることになる。中世ヨーロッパのペスト蔓延では、人口の1/3が死亡したと言われているから、同程度のインパクトであったと言えよう。

この事態に、政府は大宰府(政府機関を指す時には「大」宰府を用いる)管内の神社に幣帛を奉って祈祷し、諸寺には金剛般若経を唱えさせたという。また、使者を派遣して賑給(しんごう/しんきゅう)するとともに湯薬を与えている。補足しておくと、賑給は、律令制において高齢者や病人、その他に対して政府が食料品や衣料品を支給する福祉制度である。また、地方からの訴えの中に「免今年田租」、つまり今年は納税を免除してくださいとの記述もある。

聖武天皇はこの災厄が自分の不心得によるものではないかと責任を感じ、仏教への信仰を深め、天平19年(747年)には東大寺の大仏の鋳造を命じ、さらには日本各地に国分寺を建立させた。

これほどの猛威を振るったその結果は、多くの人民が感染し、集団免疫のような状態になって、いったんは収束したようだ。

このように、1300年近く前のことであるのに、死亡の程度を除いて、今般のコロナ禍の伝播からその対策、社会の混乱の状況まで、いろいろと通じるところがあり、きわめて興味深い。

天然痘と種痘

時代はずっと下るが、久留米出身の緒方春朔による種痘(※天然痘の予防接種)を紹介しておきたい。緒方春朔は、長崎で遊学後、久留米の北東20kmにある秋月藩に移ったが、清の医学書「御纂醫宗金鑑」(乾隆7年・1742刊)から中国式人痘法を知り、寛政2年(1790)、ジェンナーの牛痘に先立つこと6年、旱苗種法で実施したという。筆者は観光で訪れた秋月(朝倉市)でたまたま緒方春朔の屋敷を見学し、このことを知って大いに驚いた。

一方、久留米の西北西30kmにある佐賀藩では、弘化3年(1846)、天然痘が大流行した。オランダルートで痘苗(牛痘)を入手した佐賀藩医の楢林宗建が種痘を行うこととなり、10代藩主の鍋島直正は、1849年8月、佐賀城内で息子の淳一郎にも接種したという。筆者は、佐賀県医療センター好生館の理事長室で、その模様を描いた絵を拝見した。この成功によって種痘は藩内に広がり、やがて全国に普及していった。その中心は、緒方洪庵の適塾であり、さらには東大医学部の基になったお玉ケ池種痘所であった。

この一連の話もまた、コロナのワクチン開発を期待して待つ、今のわれわれの心に響くものがある。

さらに、下って最近のことでは1975年ごろのWHOによる天然痘根絶があげられる。その立役者の一人は、筆者もかつてご指導いただいた蟻田功先生(元国立熊本病院長)である。

いったんは克服したとされた感染症だが、依然として侮れない。こうした過去の経験は十分に学習しておく必要がある。

--
佐藤敏信(久留米大学教授)

2020.09.08