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先見創意の会

50年前の映像記憶~祖国復帰と「眩しさ」と

大浜信治 編集者

ずいぶんと朧気になった。半世紀前の歴史的な出来事を巡る記憶のことだ。

正確を期して記録に当たろうという生真面目さも持ち合わせていないから、いい加減なことを書き連ねそうだ。のっけから言い訳をして煙幕を張っておく。

日本国憲法に憧れた

その歴史的な出来事、法的には「施政権返還」という。1972年5月15日、琉球諸島における行政・立法・司法の三権の施政権は米国から日本に返還された。権力が移譲され、支配者が入れ替わることを客観的に示すだけのこの用語からは、人々の感情の機微をうかがい知ることはできない。

島に住む人々(シマンチュ)は、自らの意思を込めて「祖国復帰」と呼んだ。異民族支配から逃れ、あるべき姿に復することを強く望んできた。27年間だ。

第二次世界大戦、その末期の沖縄戦、敗戦。占領下の「軍政」、朝鮮戦争、ベトナム戦争――。沖縄島の南北に長く連なる米軍基地は、それ自身が濡れ縄のように重く、ねっとりとオキナワにまとわりついた。戦争は常に隣にあった。だからこそシマンチュは、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重を掲げる日本国憲法に憧れた。多くのシマンチュにとって祖国復帰とは、「日本国憲法を持つ日本人になること」を意味した。

オキナワからは日本が眩しく見えた。

千円札はカラフルだった

その年、私は南の小さな島の小学2年生になった。日の丸の小旗を手に目抜き通りをパレードした記憶があるから、復帰の祝典に駆り出されたのだろうと思い込んでいるが、それは同じころに新設された、私が通おうとする小学校の開校記念のそれだったような気もする。物心がついたばかりの古い記憶はまったくあてにならないが、それでも鮮明な総天然色の映像記憶が2つある。

ひとつは日本銀行券。そろばん塾だったか、誰かが月謝袋に伊藤博文を描いた千円札を包んでいた。一瞥して、そのカラフルさに目を奪われた。クリーム色の用紙に緑、青、紫、ピンク、色とりどりのインクが使われている。銅貨が錆びたような、緑青色のドル紙幣との違いは際立っていた。おもちゃの子供銀行券が月謝では先生も困るだろうと持ち主をからかうほど、私は無知であった。

日銀の資料によると、この千円札は昭和38(1963)年11月1日に発行が始まったという。あらためて見返すと、岩倉具視の5百円札も聖徳太子の1万円札も、ジョージ・ワシントンの1ドル紙幣よりは、よほど色彩豊かだ。こんなきれいなお札があるのか、早く手にしてみたい、使ってみたいと、確かに心躍ったことを思い出した。

もっとも、千円札など、子供の日常とはまるで無縁な存在だった。5セント、10セントを握って駄菓子屋に乗り込めば、たいていのものは手に入った。復帰時のレートは1ドル305円だから円換算で15円、30円といったところか。実際に私が千円札を使えたのは、おそらくだいぶ後のことだったろう。

幼い夏の記憶は原風景になった

もうひとつは、登下校時の風景。

私が通った小学校は、復帰の2年前に埋め立て地に建設された。港湾に隣接したその埋め立て地は、航路整備の浚渫工事で出た土砂を使って造成したのだと聞いた。南島の遠浅の海岸を浚うのである。土砂とは主に造礁サンゴ、琉球石灰岩のかけらである白砂だった。学校が建つ埋め立て地はビーチのように白かった。

復帰のころ、通学路周辺にはまだ、ほとんど建物はなかった。真夏などはそれこそ、垂直に近い陽光が遮るものなく降り注いだ。白砂に届いた直射日光は、そこら中で乱反射してキラキラと輝いた。私はしばしば、万華鏡のなかを進んでいるような不思議な感覚にとらわれた。

正午をまわった下校時などは、まともに両目を見開くこともできない。黄色の通学帽を目深にかぶり、遮光器土偶のように目を細めて歩いた。まったき白――。7歳の私にとって、世界はことのほか眩しく、照り輝いていた。

共働きの両親がいつも不在だったため、時折は自宅からほど近い、琉球赤瓦を載せた祖父母宅に向かうこともあった。扇風機が首を振る開放的な縁側に倒れ込み、祖母が手渡す冷たい麦茶をゴクゴクと飲み干すたびに生き返る心地がした。いまでもゴクリと喉を震わせれば、あの時の感覚が蘇るような気がするのだ。

人はそれぞれ原風景をもつという。私にとっての原風景は間違いなく、あの幼い夏のころの石灰岩と陽光に包まれた白い世界だった。

50年が過ぎた。戦争にまつわるものを振り払いたいと日本国憲法に憧れた当時のオキナワの大人たちにとっても、殺風景な白い道をてくてくと登下校を繰り返した子供の私にとっても、復帰の記憶とは何かしらの「眩しさ」を伴うものだったように思う。

去る6月23日は沖縄の「慰霊の日」だった。沖縄本島に展開した旧日本軍が組織的な戦闘を終えた日とされる。

沖縄戦を知らず、復帰の記憶があやふやな私も、もうすぐ還暦を迎える。

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大浜信治(編集者)

2022.06.28