自由な立場で意見表明を
先見創意の会

日本における冤罪の構造

清宮美稚子(編集者・『世界』前編集長)

「やっぱりあの人、あやしいよね。逮捕されるからには何かあるのでは」
これは、1994年、松本サリン事件が起こったときに、私の周囲でも聞かれた言葉だ。あの人とは、猛毒の化学物質が使われたこの前代未聞のテロ事件の犯人として逮捕され、後にオウム真理教教徒らによる犯行であるとわかってようやく冤罪が晴れた河野義行さんのことだ。河野さんは第一通報者で、被害者のひとりでもあった。まったくひどい冤罪事件であり、また報道が猛反省を迫られた事件となった。しかし、冒頭の発言は、ただただ誤った報道に流されただけだったのか。私にはそうは思えなかった。まったく知らない人でもなかったのでその言葉を耳にして驚き、ずっとひっかかっていた。四半世紀以上たったいまでも、ときどき思い出すのである。
 
少し話は飛ぶかもしれないが、経済事件裁判のことに触れてみよう。粉飾決算事件で逮捕・起訴され、一貫して無実を主張したが最高裁で刑が確定した経済評論家、細野祐二氏は、自らの体験を、村木厚子厚労省元局長が無実となった郵便不正事件、さらには長銀粉飾決算事件や日債銀粉飾決算事件と比較しながら、経済事件において冤罪が起こる構造を深く考察した(以下の記述は、細野氏の著書『会計と犯罪――郵便不正から日産ゴーン事件まで』に依っている)。

裁判の過程で、いったんその構図というか、裁判上の土俵が決まってしまうと、いくら事件の本質からずれるとしても構図は変わらない。細野氏の事件の場合、経済事件の慣行から弁護側が犯罪事実そのものを争うのではなく、被告人の故意だけを争った。バブル崩壊にともなう粉飾決算事件として知られる長銀事件、日債銀事件も同様である。この構図は、後で気づいた細野氏の力では変えられなかった。それが有罪に結びついた、細野氏の事件を知ったとき、会計学や会計の実務についての専門的な知識がない場合、裁判の過程で正しい判断ができるのだろうか、決められた構図が制約にならないだろうか、というのが素人として私が素朴に疑問に感じたことだった。正常な(という言い方にも躊躇はあるが)手続きで作られた構図である以上、変えることができないならば、その構図に沿って判断するしかないが、それでは冤罪につながりかねない。それでいいのだろうか。

医療事故をめぐる裁判では、大野病院事件(2008年無罪)、特養あずみの里事件(2020年無罪)などが記憶に新しいが、そもそも医療事故を法で裁くやり方は冤罪を招きやすく、事故を起こした医療者と患者の双方に深い傷を残し、ひいては司法が医療システムを崩壊させる恐れさえあると指摘されてきた。

大野病院事件の弁護人、安福謙二氏は、著書『なぜ、無実の医師が逮捕されたのか――医療事故裁判の歴史を変えた大野病院裁判』の中でこう指摘する。「捜査、とくに鑑定書や意見書、専門家への聴取に対する司法側の向き合い方が根本的に変わらない限り、冤罪がなくなるはずもない」。これは、細野氏が詳しく分析している経済事件の裁判とも共通している。他の刑事裁判でも同様だろう。「専門家の説明(事情聴取)に対し、予断を捨てて、真摯に聞く耳を持つことが大切であること」、これも細野氏の主張と共通する。医療をめぐる裁判においても、予断のままに、できあがった構図が残り続けることはないだろうか。「『純粋な科学的究明につながる調査制度』が実現すれば、それは同時に、医療鑑定を基礎とした、裁判実務(刑事、民事を含む)の充実につながる。そうした事情は医療事故にとどまらない。これらの視点を持つことは刑事裁判による冤罪を少しでも減らすことにつながるだろう」という指摘はたいへん示唆に富む。

なお、経済事件に話を戻すと、長銀事件は最高裁で逆転無罪、日債銀事件は差し戻し審で逆転無罪、一方、細野氏は最高裁で有罪が確定した。細野氏はこう述懐する。長銀・日債銀事件の逆転無罪の背景には、不良債権の原因を作り出した経営者の後始末をやらされた銀行経営者に対する社会の同情論があった。細野氏の場合は「金をもらって粉飾決算の指導をしたという会計士像」に社会が共感するはずがなかったと。そこから細野氏は、世間をにぎわせた日産カルロス・ゴーン事件についてこう述べる。「(ゴーン)裁判の帰趨を決めるのは結局国民世論だと思う」「特捜検察の冤罪構造(これについて、細野氏は「被疑者が無実とわかっていても逮捕・起訴して有罪を取りに行く」という驚くべき実態を指摘している)が公開の裁判により明らかとされ、国民の激昂を誘った時、その強い国民世論を背景として、初めて、裁判官は安心して無罪判決を出すことができる」(ゴーン元会長の「逃亡」により、公開の裁判はまったく望めなくなったが)

「国民世論」に関連して思うのが、日本人と人権をめぐる問題である。日本は、国連の数々の人権条約・規約を批准しているが、その一つに「拷問禁止条約」がある。「自由を奪われた人々を中心として、拷問や非人道的あるいは品位を傷つける取扱いを禁ずることを目的とする重要な人権条約」である。拷問禁止条約の日本の実施状況に関する国連の審査で、日本の刑事司法が自白中心であることに大きな批判が集中した(2013年、第2回審査における総括初見)。「これは中世のやり方でしょう。中世の名残りといえるのかもしれない。こういった制度からは離れていくべきだ、真剣に考えて、日本の刑事手続きを国際標準に合わせる必要がある」というモーリシャスの委員の発言が注目された。法の建前では「疑わしきは罰せず」であるが、実際、日本の刑事裁判の第一審の有罪率は約99.9%に達している(2014年)。

まるで「疑わしきは罰せられる」かのような現実に対する国連の勧告――。日本の人権情況が国際標準からみて問題があることは、子どもの権利条約や女性差別撤廃条約の実施情況からみても明らかである。そもそも、「国際人権」の理念とその仕組みを教育の場できちんと教えているだろうか。そういうなかでは、冒頭のような発言が出てもおかしくないように思う。人権が自らのものになっておらず、資本の論理と結びついた新自由主義がはびこる社会で「自己責任論」が人々の心に沁みこんでいるからだ。「あやしい人」があやしまれるのはその人自身のせい、とする視線がある(「新型コロナに感染したとしたら、それは本人のせいだと思う」が日本では15.25%で、アメリカの3倍以上だったというアンケート結果を思い出してしまった)。

刑事手続きや裁判のあり方を国際標準に合わせること、とくに専門性の高い分野はその専門性に敬意を払い予断を退けること、そして立法や行政だけでなく司法にも「国際人権」の考え方を身につけた市民の関心・監視の眼が注がれることが大切だ。細野氏が「国民世論」に期待するように。


清宮美稚子(編集者・『世界』前編集長)

2020.10.01