自由な立場で意見表明を
先見創意の会
OWL日商プログラミング検定対策講座

万博会場デザイン考:大屋根リングの意味

林憲吾 (東京大学生産技術研究所 准教授)

2025年大阪・関西万博

1ヶ月ほど前、家族とともに大阪・関西万博を訪れた。建築分野に身を置いているし、ちょうど大学のキャンパス公開に向けて1970年の大阪万博を振り返る展示を研究室で準備していた時期でもあったので、それなりに気合を入れて臨んだ。

その結果、気付いたことは二つ。

第一に、そもそも万博は1日で回れるコンテンツではないこと。当たり前である。158か国が参加して、100近いパビリオンが存在するのだから。世界の国々が集まる場ではあるが、おそらく1日だと、訪問するパビリオンは関心ある国や展示に偏ってしまい、なかなか世界は広がらない。かく言う私も、10館以上のパビリオンを見て回ったが、海外館は、普段研究で関わる東南アジアや中東がほとんど。ゆるく複数回、訪問するのが理想だろうが、それを安易に選択できる値段設定でないのが悩ましい。

第二に、万博はパビリオンが主役ではあるが、とはいえ、私たちはパビリオンの中にずっといるわけではないこと。余程のアクティブな来訪者でない限り、パビリオンの外にいる時間の方が長いのではないか。それは「並ばない万博」とて同じである。

今回の万博は、月の石を待つ70年万博の長蛇の列を反省して、並ばない万博を表明した。だが、結局のところアメリカ館を含めて多くのパビリオンが「並べば入れる式」を採用したため、月の石の行列は繰り返された。

しかし、全てのパビリオンがあのやや使い勝手の悪いオンラインの予約システムをきちんと採用していたとしても、多くの来訪者にとってパビリオンの外の時間が長いことに変わりはなかっただろう。希望のパビリオンの予約はそう簡単に取れず、空きが出るパビリオンも、あちこちに分散し、遠いし、疲れるし、あえてパビリオンに向かわず、近場で休憩して、ぶらぶらすることを選択する人が多いに違いない。

だとすれば万博の空間において、いわゆる「建築」の外の領域が大事となる。会場を都市に喩えるならば、個々の建物(=パビリオン)の中ではなく、個々の建物が作り出す景観や、街路や広場、公園といったパブリックスペースが大事になる。地図を広げて、建物を黒く塗り潰した時に残る余白とでもいえばよいだろうか。「図」と「地」でいえば、「地」にあたる部分。しばしば「ランドスケープ」として語られる領域のデザインが重要となる。

静けさの森と大屋根リング

万博は未来都市に喩えられることがある。未来かどうかは別として、1日に10万人以上が訪れるのだから都市とは呼べる人口規模と密度に達する。とはいえ、「中の人」――都市でいえば住民――は限られるから、小都市に大量の観光客がやってきた、オーバーツーリズム状態(?)の都市というのが正しいかもしれない。

都市の観光客をイメージすれば、街並みやパブリックスペースの重要性はよくわかる。都市の観光客にとっては、美術館や歴史的建物、店舗などで時間を過ごすのと同じくらい、ぶらぶらと街を歩いたり、疲れて広場の椅子に腰掛けて、ぼんやり街を眺めたりする時間は多い。前者の経験と同様に、後者の経験がその都市の記憶の良し悪しを決める。

そう考えると、今回の会場デザインにおいて、《静けさの森》と《大屋根リング》が果たしている役割は大きいと私は考える。

前者の《静けさの森》は、会場中央部に配置された忽那裕樹らが設計した庭園である。都市でいえば、公園にあたる。子供たちにピシャピシャ水遊びをさせたり、木陰で散歩させたり、憩いの風景が生まれる場所としてきちんとデザインされている。私も子連れだったので、そんな場所があるのはありがたい(どうも水辺は現在、利用停止中のようだが)。

後者の《大屋根リング》は、今回の万博で賛否両論さまざまあるが、これがあることで救われているのは間違いないだろう。このリングは、巨大な木造の構築物だが、建物というよりも街路といえる。リング下の回廊はパリのパサージュのようであり、屋根上の回廊は、鉄道の廃線跡を公園にしたニューヨークのハイラインのようである。リングが主役というよりも、周囲のパビリオンを横目にそぞろ歩きをしたり、休息したり、上から会場全体を眺めたりするためのインフラである。「図」よりも「地」である。


写真:大屋根リング。壮観な構築物だが、ぶらぶらしたり、休んだり、あくまで街路。

今回、会場デザインを担った藤本壮介は、パビリオン群からなる一つの会場=都市を計画するにあたり、円形を採用し、その図形の最も大事な要素である中心と円周に、公園や街路に似た、都市の遊歩者に恵みを与える空間装置を配置したことになる。

このことは、幹と枝をモチーフにした70年万博と対照的である。70年万博は、幹の中心に会場内のさまざまな場所――すなわちパビリオンの外——から視界に入る《太陽の塔》という強烈な「図」を配置した。それに対して今回は、個性的な「図」は、個々のパビリオンに任せ、印象深い「地」をデザインすることに徹した。特にそれ自体も壮観な《大屋根リング》での遊歩経験は、パビリオン以外の記憶を形成する上で、大きな役割を果たしている。仮にそれらをケチっていたとしたら、それこそパビリオンにほとんど入れなかった思い出だけが残っただろう。


写真:夜の大屋根リング。残す案も出ているが、魅力ある「図」あっての「地」。どうなるか。

「地」から会場全体を生き生きさせる

「図」ではなく「地」。街路や公園など、都市の余白を充実させることが都市を活性化させるという考え方は、例えば、20世紀末から徐々に浸透してきた「ランドスケープ・アーバニズム」という概念で語られる。したがって、今回の会場デザインにみるアプローチは、設計者の創意ということもあるが、時代の傾向を示している。

だとすれば、もう少し「地」にこだわれたのではないかとも思う。例えば、「タクティカル・アーバニズム」があるが、これも20年ほど前から浸透している概念だ。街路や広場など、普段は管理されて自由に使えない公共空間を、市民が自ら家具を置いたり、イベントをしたり、小さな実験的な空間利用をポップアップに展開しながら、生き生きとした空間に都市を変貌させていく試みである。画一的な計画都市に、市民自らが風穴を開ける、都市の余白の使い方である。

そのような考えに比べると、今回の会場は、例えば、それこそ「ポップアップステージ」という名のステージが、決まった位置に行儀よく配置されているというのは、あまりにも計画都市すぎるのではないか。

もっと神出鬼没な空間利用があったらよいだろうし、例えば、共同館の中で一緒くたにされている国々の、人びとやモノが路上に出てくるのもよいかもしれない。パビリオンの街並みが国の格差を暗示する状態を転倒させるような風景を、それこそ戦略的に生み出せないものだろうか。ナショナルデーの大きなイベントに限らず、パビリオンの中が、外に出てくるような小さな仕掛けもまた、時代の傾向を表す都市デザインではないだろうか。

とはいえ、万博の全貌をとらえきれているわけではない。できることならもう一度くらい足を運んで、再び万博会場デザイン考をしてみたい。

ーー
林 憲吾(東京大学生産技術研究所 准教授)

◇◇林憲吾氏の掲載済コラム◇◇
「御古解読のススメ」【2025.2.18掲載】
「なかなか遺産を駆け抜ける」【2024.11.19掲載】
「20年の飛躍」【2024.7.30掲載】
「独立をいかに記念するか」【2024.3.26掲載】

2025.07.01