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先見創意の会

独立をいかに記念するか

林憲吾 (東京大学生産技術研究所 准教授)

先日、アフリカ・ガーナを訪問した。エジプトなどの北アフリカにすらこれまで足を踏み入れた経験がなかったため、アフリカ大陸はこれが初である。

きっかけは、学生がガーナの近現代建築を研究し始めたからだが、とはいえ、私が普段フィールドにしているインドネシアとも共通点が多く、建築や都市を対比するのにガーナは適している。

アジア・アフリカ諸国は、20世紀前半までにその大半が欧米列強あるいは日本の植民地支配を経験した。それらの国々は、第二次世界大戦後、アジアを皮切りに、続けてアフリカでも、続々と独立を果たす。インドネシアもガーナも、そのようにして誕生した国だ。

ガーナは、サハラ以南のいわゆるサブサハラ・アフリカで最も独立が早かった国である。旧英領ゴールドコーストから1957年に独立した。パン・アフリカニズムを唱道した、初代大統領クワメ・エンクルマの手腕が大きい。のちに17カ国が一気に独立した1960年の「アフリカの年」の機運をつくるのにも、エンクルマやガーナの独立は貢献した。

他方インドネシアはガーナよりやや早く、1949年にオランダから完全独立を果たす。独立運動には、エンクルマのようなカリスマ的指導者がしばしば現れるが、インドネシアならそれはスカルノである。独立後は初代大統領として国家建設の指揮を取った。

スカルノにしてもエンクルマにしても、ただ自らの国を、独立に導いただけではない。西洋に対抗して、アジア・アフリカという主体的存在を世界にアピールした。例えば、スカルノは1955年にバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議のホストを務め、その後の非同盟路線ではスカルノとエンクルマは協調した。

つまりインドネシアもガーナも、1950年代から60年代にかけて、強い指導者のもとで、西洋に比肩する立場の国家になるべく国づくりを進めていたのである。もちろんこの現象は2カ国に限った話ではない。同時代のアジア・アフリカの一つの典型といえる。そして、こうした国づくりには、国の顔となる首都の開発も当然ながら含まれる。インドネシアならジャカルタ、ガーナならアクラである。

Black Star Square

多くの場合、首都は国家の政治的中心地である。そして、植民地からの独立は政治の中心を担う主体の交替を意味する。だから植民地から独立を果たしたことを表象するには首都が適している。それゆえ首都にはしばしば独立の記念碑が建つ。

ガーナの首都アクラには、独立広場として知られるブラックスター広場(Black Star Square)と呼ばれる場所がある。広場を訪れると、3重の巨大なアーチにまず人々の目は向かう。それに惹かれてアーチの正面に立つと、アーチを抜けて海に向かう強烈な軸線を感じ、目線の先には演説台が浮かぶ。アーチの軸線が強烈なのは、左右対称に配されたスタンドの効果である。広場をコの字型に囲み、3万人が収容可能という(写真1)。


写真1.ブラックスター広場(1961年一部竣工)

この広場および建物は1957年の独立後にエンクルマらによって計画され、1961年のエリザベス2世の来訪に向けてガーナ・ナショナル・コンストラクション・カンパニー(GNCC)により建設されたとされる。しかし、1961年時点では、少なくともアーチは立ち上がっていたが、スタンドは未完であった。

デザインの観点からは、20世紀前半に世界に広まったモダニズムに拠っている。近代の材料や技術を合理的に用いて、歴史主義による装飾を極力排する思想である。歴史や地域性より、近代性を表現する。形態はシンプルな幾何学が基本となる。そんなモダニズムに拠りながら、巨大なアーチのダイナミックな構造を取り入れることで、建築をシンボリックなものにしている。

とはいえ、このデザインは斬新とまでは言えない。モダニズムを基調に巨大なコンクリートアーチをシンボリックに取り入れる案は、ル・コルビュジエによる1932年のソビエトパレスのコンペ案に早く、その後も、例えば、丹下健三が広島平和記念公園で試みようとするなど、幾人かの建築家が試みてきたからだ。

しかし、いずれも実現はしなかった。そのため、実際に世に出た点では、アクラのアーチは二番煎じではない。モダニズムに精通している人には、アクラのアーチは「ついに実現したか」と思わせる、一歩先ゆく建築に映ったに違いない。

MONAS

先ほど述べたように、エンクルマらは西洋と伍すアジア・アフリカを目指していた。西洋に飲み込まれない、異なる意志を持つ主体であることを政治的にアピールしていた。そうであるならば、地域性を排したモダニズムよりも、例えば、もっとアフリカらしさを表現する方を選びそうなものである。

けれども、モダニズムが選択された。というのも、当時の世界の主流はモダニズムである。その中で世界に誇れるものをつくることは、世界標準で西洋に比肩することを意味する。対等な立場を求めることは、グローバルスタンダードで相撲を取るという心情を生む。

それはインドネシアも同じである。インドネシアの首都ジャカルタには、都心の独立広場の中央にモナス(Monas、ナショナルモニュメントの略)と呼ばれる独立を記念する約132mの塔が建つ(写真2)。スカルノ時代に開催されたコンペから生まれたこの塔もまたモダニズムを基調とする。


写真2.モナス(国家記念塔、1961-75年)

台座、塔、その上の炎からなる記念碑は、黄金の炎こそ、具象的なモチーフが用いられているが、大理石で覆われた台座と塔は装飾を排したシャープで抽象的なデザインである。

高等教育で建築を学んだスカルノは、モナスに限らず首都での国家プロジェクトにモダニズムのデザインを導入することを明確に好んだ。インドネシアがアジア・アフリカの新生国家の灯台になることを目指したスカルノは、ジャカルタを欧米に比肩する都市にするためモダニズムを好んだとされる。

新設か、上書きか

アクラとジャカルタの独立広場と記念碑には、以上のようなデザインの選択に共通のマインドが見られるが、他方で大きな差異もある。場所の選択である。

それぞれの広場が独立の記念になる前の植民地期にどんな場所だったかを見ると、両者は対極である。アクラはほぼ未開発地、ジャカルタは広場である。

海岸沿いに位置するアクラの広場は、植民地期の都市計画を見る限り、開発はされていない。今後の開発計画では、現在、軸線になっている箇所は、海岸沿いを巡る幹線道路が通過する予定だったが、南北の強烈な軸はいまほど意識されていなかった。

その計画を変更し、建築によって軸をつくり、新たな都市の中心を生み出すことによって、国家が別のフェーズに入ったことを表象したのがアクラである。

他方、ジャカルタの広場は独立前から都市の中心を成す広場だった。周囲は官庁街であり、広さは広大。都市のへそと言ってよい。

スカルノはその広場の輪郭は変えずに、植民地期にはなかった塔を計画した。都市の骨格を継承しつつ、もともとシンボリックな場所を上書きすることで、国家が別のフェーズに入ったことを表象したのがジャカルタである。

独立を記念し、国家が生まれ変わったことを知らせるには、アクラ型、ジャカルタ型それぞれある。感覚的には後者のような、シンボリックな場所のレガシーを引き継ぎながら上書きするケースが多数派に思える。

アジア・アフリカの国々が、いかに独立を記念したか。ガーナに行って、少しそんなことを調べたくなった。当時の国々がその力強い存在をいかに国内外にアピールしたかは、現代のグローバル・サウスの国々が、その力強さを世界にアピールする方策とも通じるところがあるのかもしれない。

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林 憲吾(東京大学生産技術研究所 准教授)

◇◇林憲吾氏の掲載済コラム◇◇
「原子力災害と凍結された時間」【2023.12.12掲載】
「都市林業の効用」【2022.3.22掲載】
「仏教から考える都市」【2021.9.28掲載】
「類人猿から考える都市」【2021.3.30掲載】

☞それ以前のコラムはこちらからご覧ください。

2024.03.26