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先見創意の会

シャルロット・サバイヨンは美味しい

細谷辰之 [日本医師会総合政策研究機構 主席研究員]

学校に行くのは苦痛だった。行くこと自体はそこまで嫌ではなかったが、学校にいるのはとても嫌だった。だから、よく途中で帰ってきたりしていた。一番苦痛だったのは、強い拘束感を感じざるを得なかったことなのかなと、当時のことをつらつら思い出すと心当たる。

絵を描けと言われる。絵が描きたいという気持ちになれない。それで仕方なく描きたくない絵を描く気になるよう、一生懸命自分をその気にさせる。これには結構エレルギーを要する。そして時間がかかる。したがってなんとか絵を描きたくなる気持ちになり、ついには絵を描くことに没頭し始めたころ、いきなりやめろと言われる。没頭していたゆえにやめろという言葉が聞こえず、何度言われても聞こえないこともあり、激怒されたり、呆れられたり。学校はよく母を呼び出した。呼び出された母は、ひとしきり「先生」からのお叱りを受け止めると、外で待っていた一人息子を学校の近くの「エスワイル」という「フランス菓子屋」につれて行った。エスワイルではシャルロット・サバイヨンを食べさせてくれた。自分も同じものを食べながら「あなたも学校も大変ねえ」と笑っていうのが常だった。

また、先生の一言、教科書に書かれた一文から、何かを連想したり、全く別の言葉を思いついたりしてしまうこともよくあった。そうすると、その湧き上がってきた連想や、想像からどこかに行ってしまいたい衝動、その場から逃げ出したい衝動に駆られる。毎回その衝動はかなり強いのであるが、それでもなんとか我慢し止まろうと頑張ってはみる。頑張ってはみるが、結局は隙を狙って教室を抜け出して学校からいなくなってしまう。当然のように激怒されたり、心底呆れられたり、結果、小学校の最初の3年間はほとんどの先生に厄介者扱いをされていた。たった一人養護のT先生はいつも僕をかばってくれた。T先生は、僕の過集中にも、抑えがたい衝動にも、「そういうことはあってもいいんだよ。大丈夫だよ」と言ってくれた。

小学校2年に上がると、僕に手を焼いた学校の「すすめ」で、母と二人、千代田区教育委員会の面談に週2回通うようになった。面談の後は二人で九段坂をブラブラ上り、坂の上にあったクローバーでマロングラッセを食べさせてくれた。
クローバーのマロングラッセの後は都電に乗って四谷の祖母の家によく行った。事情を知っている祖母は、「あなたも教育委員会も大変ねえ」と言って笑っていた。

僕と母が、数え切れないくらいシャルロット・サバイヨンとマロングラッセを食べている間に、学校は僕を千代田区立の鎌倉学園に送る準備を進めていた。そして4年生の2学期から全寮制の鎌倉学園に転校することになった。だが結局親元を離れての鎌倉移住は実現しなかった。

4年生になると「とてつもなく厳しく怖い」という前評判を引っ提げて、C先生が赴任してきた。C先生は僕のクラスの担任になった。
ある日の終業時、C先生から残るように言われた。衝動を抑え切れずにこっそり帰った翌日のことであった。クラスに二人きりになると、C先生は僕の席の前の椅子を向かい合わせにして腰掛け、昨日はなんでこっそり帰ったのかと尋ねた。前評判通り厳しく怖いC先生は、予想を裏切る穏やかな様子で僕に静かに尋ねた。学校の先生は何を話しても聞いてくれない動物だと子供ながらに信じていた僕であったが、なぜか正直に理由が話せた。それ以上に、学校にいることのつらさや、抑えがたい衝動や、のめり込むと止まれない性癖についても赤裸々に話すことができた。母とのサバイヨンのことまで話してしまった。
C先生は一度も遮ることも、叱ることもなく、しかもいちいち頷きながら、最後までちゃんと聞いてくれた。そして僕が話し終わると「お前は間違っていないよ」と先生は言った。再び予想を裏切る先生の言葉に驚いた僕に「お前は全然間違っていない」と先生は続けた。その日、僕はC先生とエスワイルに行き、シャルロット・サバイヨンを食べながら、どうしても帰りたかったら帰ってもいい、何かとてもつらかったら必ず先生に話す、途中で帰ることが重なって勉強がわからなくなったら、放課後先生と勉強すると約束した。

不登校が増えているという。由々しき問題だという。なくさなければならないともいう。学校に行きたくても、いじめとか教師との関係とか、家庭の問題とか、多種多様な理由で、行けなくなった子供はいる。そういう子供は行かれるようになったほうがいいだろう。ただ、行きたくない、行くのがつらい子供もいる。そういう子供には、ゴールを学校に行くと設定していいものだろうか。大いに疑わしい。もちろん僕も由々しき問題だとは思う。しかしそこにある由々しき問題には、行きたくていけない子の問題だけではなく、行くことのつらい子に、今の学校の仕組みが向き合えないという問題も含まれているように思う。

北海道紋別市にはUTORILLOという「場所」がある。地域おこし協力隊のOとHが数年前に開設した。古い民家を借り受け自分たちで改装し、「中高生のためのオープンスペース」として開設した。そこにくる子がまとっている事情や日常は多種多様で、もちろんその中には学校に行くのが辛い子、行かれない子、家が安住の場ではない子、虐待やネグレクトを受けている子もいる。不登校の子どもには公設の教室のようなものもある。ただそうしたところにはどうしても「学校臭」が付きつきまとう。そこにいる大人も、つい勉強をさせようとしてしまう。不登校に対しての、学校側のニーズに応えようとしてはいても、子供側のニーズには応えられない。そうしたところを居場所にできる子もいるかもしれない。ただ多くの子供にとって、子供のニーズへの想像が乏しい場所は十分な居場所にはならないであろう。

UTRILLOでは勉強をしろとは言われない。何かしろとは言われない。OやHやきている他の子と話したり、ボードゲームをやったり、遊んだりで過ごす。やることは自分で決める。一人で誰とも話さず、本を読んだり、ゲームをしたりでもいい。OやHに相談を持ちかける子もいる。OやHは進路相談にも丁寧に応じている。

最近では、親や学校からの相談にのって、子供をケアすることも少なくない。虐待を発見し児童相談所につなげたりもしている。(ただ、ほぼ四国の半分の大きさに30万人の人口のオホーツク管内に児童相談所は10人程度の職員の北見の児童相談所が1箇所あるだけ。とても対応し切れていない)。

本来は行政がやる仕事ではある。東京や名古屋などの人口の多い都市では、こうした「子どもの居場所」を提供する施設は、公設にせよ民間にせよ、幾つもあるであろう。ただ東京都23区と同じ大きさの面積に22000人程度の人口しかないこの町にはそういう環境はない。だからUTRILLOは本当に貴重である。地域おこし協力隊で移住してきた若者が「子どもの居場所」を作り活動をする。まさに地域おこし協力隊という制度の制度趣旨に合致しまくっている活動と言っても叱られまい。

ここで、触れておきたいのは、紋別市の担当課の対応である。元々地域おこし協力隊の活動として始まったUTRILLOではあるが、地域おこし協力隊には年限がある。したがってこの「居場所」が存続するためには、OとHが協力隊卒業後も紋別に残り活動を続けなければならない。協力隊の活動は国からの「金」があり、市が負担する。しかし卒業後には市が自ら財源を確保し支えなければ立ち行かない。現在、紋別市の担当課は、UTRILLOを存続していくために、より親和性の高い部署を担当課として、市が財政的にも活動の上でも支えていくための調整を進めている。

こうした「居場所」があれば、そこを利用するこどもはもちろん、利用する必要を感じない子どもの安心まで生み出せる。住民全体に寄与する大切なインフラである。故に、もちろん、本来行政がすべき仕事である。無条件に支えるのが真っ当である。しかし残念ながら、こうしたとき、自治体は往々にして、自力でも稼げとか、どっかから財源を見つけてこいとか、頓珍漢なことを言いがちである。あたかもそれが経済合理性かのような過ちに陥りがちである(経済合理性なんて言葉を安易にNoというための理由に使うなと言いたい! ちゃんと考え勉強しなさいと言いたい!)。

紋別市の市政のあり方、行政のあり方には言いたいことはたくさんある。保健医療福祉連携アドバイザーを拝命して15年(現在でも日本医師会と兼職している)言いたいことはモンブランほどある。モンブランほどでないにしても斜里岳くらいはある(紋別市にも小職に対して言いたいことは羅臼岳くらいはあるかもしれない)。ただ、今回のこの件には素直にシャッポを脱ぐ。紋別市のこの対応には深甚の敬意を持っている。多くの人に知ってほしいと思う。ふるさと納税日本一になったこともある紋別市は帆立や蟹と流氷砕氷船ガリンコ号だけでなく、こんなこともしたと知ってほしい。

残念ながらエスワイルは随分前に閉店した。神田小川町に行ってもあの懐かしい店舗はない。あのシャルロット・サバイヨンを食べることはできない。ただし、上野の黒門町に行けばうさぎ屋は健勝である。どら焼きを堪能することは大丈夫である。

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細谷辰之(日本医師会総合政策研究機構 主席研究員)

◇◇細谷辰之氏の掲載済コラム◇◇
「不思議の国はあります」【2023.8.8掲載】
「『いただく』の洪水に、つかむ藁を探す」【2023.3.14掲載】
「怒っているは起こっているかということについてぶつぶつ呟いた結果」【2022.11.9掲載】

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2023.11.14