自由な立場で意見表明を
先見創意の会

唐茄子屋雑談

細谷辰之 (公益財団法人福岡県メディカルセンター 主席研究員)

だいぶ前の話である。とある友人に尋ねられた。Aとでもしておこう。「君は、この次はどこの国に住もうと考えている?」唐突で藪から棒なAの問いに、僕は、答えを探すよりも前に、なぜそんなことを聞くのかと思ってしまった。確かに、その時僕はフランスに住んでいた。生まれと育ちは日本である。故郷の国と違う国に住んでいるからといって、地球を股にかけた放浪男でもない僕の選択肢は2つ。フランスに残るか日本に帰るかだった。

これに対してA自身は、地球を股にかけた放浪男。それもヴィクトリア時代の匂いのするタイプの放浪男。領主の次男、三男には珍しくない、植民地を点々とする生活を享受している放浪男だった。英国人である。

「さあ、どうだろう。フランスに居座るか、日本に帰るか。きっとどっちかだ。」僕は締まりのない答えを呟いた。そして、一応、紳士の嗜みとして、同じ問いを彼に返したのである。きっとそれを期待していたに違いなかったからである。

「僕はね、KAIGAIに行ってみたいんだよ。それ以上に住んでみたいのだよ。KAIGAIに。」えっ!と思う表情が僕の顔に浮かぶのをみたAは満足そうに続けた。「僕が、日本に住んで知ったのだけど、この地球上には、KAIGAIというところがあるらしいんだ。とにかくいいらしんだ、KAIGAI。」「君の同胞たちは、よく言っているじゃないか、綺麗な街並みがあると、KAIGAIみたい!素晴らしい景色があっても、日本じゃないみたい、KAIGA Iみたい!って。日本にもずいぶん綺麗な景色や街並みはあるけど、KAIGAIのそれはそれらを遥かに凌駕する素晴らしさなんだろうな?」Aは親切で、正義感に溢れ、人権と民主主義を大切にする立派な男であるが、たまに意地悪で皮肉屋なのが美徳である。

Aに指摘されるまでもなく、確かにこういう物言いはよく耳にする。広々とした景色に感嘆するときに「KAIGAIみたい!」は先週も2回くらい聞いた。また、これとは全然違う状況でKAIGAIが出てくるのは、制度や文化の話の中である。「これって、KAIGAIではどうなんですか?」ここでのKAIGAIは欧米を想定して言っていると推測できるが、こういう場合、僕は聞き返すことにしている。「KAIGAIってどこのことを指しています?ヴァチカンですか?フランスですか?サントメプリンシペですか?それともインドですか?」と。

外から来たものをありがたがり、国の外に憧れを持つことは悪いことではない。度が過ぎると恥ずかしいが、悪いことではない。島国の宿命でもあろうが、そこから生まれるものもある。我が国を代表する文化と思われている(実際そうだと思うが)茶道でも、もっとも格式の高い茶碗は天目茶碗のように中国伝来のものとされているが、今や茶道はこの島の上で独自に花開いている。

我々が生存している地球という星には、フランスやアメリカや、英国や、中国やその他たくさんの国が存在している、そのことは、ほとんどの人が知識として持っている。でも、つい、「KAIGAIでは」という物言いをしてしまう地下には、どこかで「この世は、我々とその他で構成されている」という存念がありはしないか?この世の中が、日本とKAIGAIで構成されているかのような言語習慣は、誤解と誤謬を大量生産し続け、偏見と排他性という副産物も生み出しかねない。アガサ・クリスティーの小説の登場人物の中に、英国人は信用がおけて、外国人は信用できないという「法則」を頭から信じている中高年のご婦人が頻回に現れる。あそこまで無邪気でないにしろ、自らも気がつかないままにこの「法則」を信じていることがあるかもしれない。僕自身、ごくたまにではあるが、ひやっとすることがあるので、十分気をつけたいと思う。

人間にはやはり、「内輪」を大事にする本性があるのだろう。この島に住む我々が、KAIGAIに対する憧れや、忌避の気持ちを抱くことの根っこにもこの本性が働いているのだろうか?「内輪」を大事にすること、そのものには何の問題もないとは思うが、大事にする仕方は大問題である。例えば、身内の不正を隠す。これは身内を大事にしたことにはなるまい。たまに2時間サスペンスで現れる、殺人犯になり変わって、罪を被ろうとする「自己犠牲大明神」のような人。これは、マゾヒスティックな自己満足の権化のような行為で、これによって誰も幸せにならない。庇われた殺人犯に良心があるならば、一生贖罪の機会も与えられず死ぬまで苦しむ。庇った本人も獄中できっと悶々とし続けるであろう。自己犠牲大明神に家族がいるとすればたまったものではない。身内の犯罪や、不正は隠してはいけない。不正や犯罪を犯した「身内」のためにならない。庇った者の、愚かで、短絡的な自己満足が残るだけである。はずであるが、世間は往々にして、身内の不正や犯罪を庇った、愚かで短絡的で、自己満足でしかない行為に拍手を贈る。内部告発者にも、冷ややかな目を向ける。裏切り者というレッテルを貼り付ける。自分でも、ひやっとすることがある。そんな気持ちが心の底でドロドロと湧き上がりかける。僕自身、不幸にして、その機会にぶち当たってしまえば、内部告発はすべきとは思う。ただ、その後の世間の目を恐れて勇気を振り絞るのに大変な努力を要することになるだろう。ひょっとしたら、己の弱さに負けて知らんぷりを決め込むかもしれない。

一見利他的に見えるが、利己的でしかない行為。利他的な厚化粧を施しても、利己的でしかない行為。属する集団のために犠牲になる、国家のために命を捧げる、国益のために寝食を忘れる。こういう行為も、利他的な厚化粧を施した利己的な行為かもしれない。もちろんそれが、合理的で、正義に違背するものでなければ、勝手気ままにやればいい。しかし、そうでなければダメな行為でしかない。内輪にはより厳しいくらいが丁度良いのであろう。内輪の不正は、うちわだからこそ、糾弾する。内輪の足らざるは、内輪だからこそ批判する。それが良い環境を作るのであろう。集団の中で、みんなが同じ色に染まり、一致団結して、内部に異論が出なければ、その集団は進歩しないし、そこから出てくるアイデアもやがて陳腐にならざるを得ない。

現在、僕には3つの選択肢がある。日本にとどまるか。フランスに戻るか。そしてハワイに移住するか。である。

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細谷辰之(公益財団法人福岡県メディカルセンター 主席研究員)

◇◇細谷辰之氏の掲載済コラム◇◇
Auf Flügeln des Gesanges【2022.4.12掲載】
「見たんか?」【2021.12.21掲載】
「Homo Stultusと称される」【2021.8.24掲載】

☞それ以前のコラムはこちらから

2022.08.02