「人間は考える葦」教育のゆくえ
片桐由喜 (小樽商科大学商学部 教授)
卒業論文の意義
本学を含め、日本の少なからぬ大学は卒業論文(以下、卒論)の合格を卒業の要件としている。論文と仮にも名がつく以上、論文としての体裁、中身が伴っていなければ合格とすることはできない。しかし、学部生レベルで論文なるものを書き上げることは容易ではないと、多くの大学教員が実感しているところであろう。それでも、卒論を課す意義は何か? それは、いうまでもなく学生が4年間の学習の集大成を形にし、かつ、ちゃんと教育しましたと大学が世間に果たす責任の形でもある。
かつて卒論執筆で想定されていたのは、多くの書物や資料を読み込み、自分の頭で考え、言葉をひねり出す学生の姿である。その時の執筆道具は紙とペンであり、それがワープロ、パソコンとなっても、読む、考える、書くことは学生、つまり人間の仕事であった。その前提が今、大きく崩れそう、あるいは、すでに崩れているかもしれない。このような状況を引き起こしたのが生成AIである。
生成AIと卒論
生成AIとしてよく知られているのが、ChatGPT、Geminiなどである。これらは、膨大な情報をもとに、人間の出すリクエストに応えて資料や文章の作成、要約などを人間よりも数倍速い速度で成し遂げる(らしい。筆者自身はまだ利用経験がないので、この辺りは不知である)。
生成AIにより職場の効率性と生産性が高まり、かつ、労働者の働き方改革に資するなら大いにこれを利用すべきである。タイムイズマネーの世界だからである。しかし、大学だけではなく学校という場ではタイムイズマネーは正論足りえない。学校は読み書きと自分の頭で考えることを学び習慣づけることを10数年という長い時間をかけて教える場である。つまり、「考える葦」の養成こそが教育機関の使命である。
しかし、今、生成AIが学生に代わってレポート、論文など作ることが可能になってきた。時に私も学生のレポートなどを読んで、はて、こんな立派なことが書ける学生だったか? と思うことがある。この場合、日ごろ、接触のある学生ならば、「私が書いた」と言っても、普段の言動を見て、大方の見当は付く。
逆に言えば、日ごろ、何の接触もない学生が生成AIを利用してレポートや論文を書いてきたら、おそらくは見抜けないであろう。真面目に読んで考えてレポートなどを書いた学生が生成AIを利用して書いた学生より劣る成績を付けられることは十分にあり得る。このご時世、生成AIを駆使できるのも実力のうちとなるのだろうか。
使命に立ち返る
このままいくと、生成AIが考える葦を根絶やしにするかもと危惧せざるを得ない。そのため私たち教員は学校の使命を守るために、生成AIと向き合わざるを得ない。通常なら、ここで「生成AIと闘う」というフレーズが出そうなものである。しかし、それが意味のないこと、無理なことである位は私にもわかる。
生成AIと向き合うとは、おそらくレポートや卒論を書かせる手順、方法を工夫し、学生に思考の跡を示させるような指導をすることであろう。その指導方法を生成AIに聞いてみるのは妙案か。
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◇◇片桐氏の掲載済コラム◇◇
◆「『静かな退職』という働き方」【2025.8.19掲載】
◆「知は力なり」-ビジネスケアラー支援の基本」【2025.5.6掲載】
◆「ICT教育の振り子」【2025.1.28掲載】
☞それ以前のコラムはこちらからご覧ください。

