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読書の秋に思う

佐藤敏信 (久留米大学教授・医学博士)

長かった夏もようやく終わろうとしている。古くから、灯火親しむ秋などと言い読書を楽しむにふさわしい時期の到来だろう。このことについて、過去数か月、いろいろと見聞きし、考えた。

涼しくなったので、久しぶりに代官山のT-siteに行った。開業して間もないNEWoMan高輪の「文喫」にも行ってみた。それぞれ賑わっていた。しかし、街中の「普通の」書店にはかつての熱気は感じられない。

それしても、この活字文化という言葉、なかなか意味が深い。要は、活字を通じて知識や情報を吸収するということなのだろう。実際、昭和の時代ぐらいまでは、ラジオやテレビはあるにしても、真の教養や知識はやっぱり活字からということだったのではないか。最近の若い方には信じられないかもしれないが、今や世界のカルチャーともなったアニメなども、(鉄腕アトムや鉄人28号が放映された)当初は文化とはみなされず、せいぜい子ども向けの娯楽と言う位置づけだった。私なりの解釈では、当時は活字から知識や教養を得るのは正しいが、安直に絵やイラストの助けを借りてと言うのはレベルが低いとみなされていたように思う(※注1)。しかし、アニメの隆盛、その文化的な影響力は無視できなくなった。古い方は実感をお持ちでないかも知れないが、来日する外国人のうち、アニメから日本を知ってという人がかなりの割合でいる。また、学会発表などでスライド(※注2)が一般化したのも大きいだろう。

さらには、SNS等の普及で、大手の出版社でなくとも、放送局でなくとも「発信」ができるようになった。それも動画で。さらに生成AIが登場した(※注3)

もう一度活字の話に戻すと、これまでは、小説であれエッセイであれ、現実の世界や空想の世界で起こっている(今風に言うと)「非構造化」の事実や体験を、活字を使って言語化してきたわけだ。私が本欄でも何回か書いた言い方で言うなら「暗黙知を形式知化」して伝達してきたわけだ。実際には、非構造化された、思想や体験を、言語という形に凝縮して伝達するということは容易でない。そのため、さまざまな修飾語や、時には俳句のように季語なども駆使しながら、何とか言語化して読者に伝達してきたのだ。読書百遍意自ずから通ずという言葉があるが、これは、多くの時間をかけて反復して読んで、言外の意味や作者の思いを汲み取ると言う作業だろう。

しかし、遣隋使かそれ以前からの何千年にもわたるこうした日本人の知識や教養を吸収するという営みを、生成AIは変化させたようだ。書き手の意図を、端的にかつ瞬間的に要約し、読み解いてくれるのである。衝撃的だ。本来なら、そういう安直な方法ではなく、読み込んで文章それ自体を味わうという作業も重要なのだろう。しかし、それはよほど時間があるか、忍耐強いか、あるいは活字を楽しむだけの教養のある人でないとできない作業だったのだ。私のような凡人は飽きっぽいし、それでいて何度も読む手間を惜しんでしまうので、味わうというところまではいかない。忙しい現代人にとってみれば、限られた時間の中で効率よく知識や教養を得たいのである。そう割り切ってしまうと生成AIは最高のパートナーである。当初は単なる要約であったが最近ではNotebookLMのように「平易な言い換え」までこなしてくれるようになった。 9月のアップデート版を試してみるといい。従来の音声解説の時間は倍以上になり、新たに音声解説付きスライド=動画解説まで提供してくれるようになった。これにより内容そのものの理解は飛躍的に進んだ。これまでも「読み上げ=朗読」はあった。活字を目で追うよりは数段楽になる。しかし、ただ単に朗読してもらうだけではなかなか「理解」まではいかない。これはAmazon audibleなどで経験したが、いくら上手に読んでもらったとしても、なかなかその要点を読み取り記憶に止めるというところまではいかない。これが先ほどの「音声解説」だと、男女2人が登場し問いかけやそれに対する回答などの形式をとる。さらにそこで驚くのは、「ええと」とか「まあ」などの間投詞が入ってくる。普通に考えれば、間投詞は音声の理解の邪魔になるはずなのに、絶妙のタイミングで挿入されるので、むしろ人間味が感じられて興味が湧き、理解も深まることに気づいた。さらにはテストまで作ってくれるようになった。学習の補助として記憶の定着まで目指すのであれば、ここまでやってくれると興味は湧くし、理解は深まるというわけだ。

我が国においては、学ぶとか身につけるということは極めて崇高な作業と考えられ、修行にも近いものであった。たとえ話として適切かどうかわからないが、お茶を飲むという行為はどうだろう。本来は渇きを癒すあるいは食べた後の口の中を爽やかにするという目的であったお茶が、茶道と「道」の領域にまで高められ、お茶を立てる、飲む、それも時間をかけてと言うすべてのプロセスが様式化、芸術化されているのだ。こうした日本的な価値観から見れば、生成AIを使って要旨を瞬間に把握するというのは、もしかしたら邪道なのかもしれない。そんなことを考えながら、高齢化した自分自身を見てみると、老眼で小さな字は見えず、黙読で字を追うなど難しい。根気も続かない。「日暮れて途遠し」で、ゆっくりと読み込んでいる時間はないんだと自分に言い訳をしながらNotebookLMと格闘、いや、対話しながら楽しみながら学ぶ日々である。

【脚注】
※注1. 谷崎潤一郎の「鍵」、「瘋癲老人日記」などは棟方志功の装丁で、場面に合った版画が随所に挿入されている。しかしこれなどは特別だろう。イラストでわからせると言うより、活字、しっかりした箱と相まって立体的に楽しむ芸術の域にまで高められている。
※注2.Winows陣営ではLotus1-2-3、AppleではPersuationの登場が大きかったと思う。日本でも、短時間に効率よく「伝える」ためにはイラストや動画が必要ということが常識化したと思う。
※注3.直近では、OpenAIのSora2の登場が衝撃的だ。思考が(非現実的であろうとなかろうと)高画質の動画にすることが可能になったのだ。

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佐藤敏信(久留米大学教授・医学博士)

◇◇佐藤敏信氏の掲載済コラム◇◇
「生成AIを使いこなす過程で学びの本当の意味を知った」【2025.6.17掲載】
◆「AI時代の到来に、日本の教育は対応できるか?」【2025.3.18掲載】
◆「学ぶ方法が激変したことで、学ぶ・知ることの意味も激変した」【2024.12.3掲載】

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2025.10.21