「おとといきやがれ」
細谷辰之 [福岡県メディカルセンター医療福祉研究機構主席研究員・日本危機管理医学会専務理事]
東京の渋谷区と北海道の紋別市で二拠点生活を始めて、もう十六年になる。最初の拠点は東京・四谷だった。もっとも、二拠点居住そのものはこれが初めてではない。パリと東京、パリと東京と名古屋の三拠点、東京と名古屋、名古屋と岐阜県明智、そして東京と紋別――振り返れば、三十年近く二拠点(うち一年半は三拠点)で暮らしてきたことになる。
かつては「東京以外は人の住むところではない」と思っていた。積極的にそう考えていたわけでも、強く意識していたわけでもない。ただ、なんとなくそう思っていたのだ。
その後、パリに移った。今度は「住む場所はパリだ」と思った。そして二拠点、三拠点の生活へ。いつの間にか、複数の拠点を行き来する暮らしが当たり前になっていた。
紋別には「オホーツク紋別空港」という小さな空港がある。羽田との間を一日一往復、約一時間四十分で結んでいる。だが、それは僕にはあまり関係がない。というのも、僕は基本的に飛行機に乗らないからだ。正確に言えば、「乗らない」というより「乗ることが難しい」。ほとんどの場合、別の手段を選ぶことになる。
紋別と渋谷の間を移動するには、フェリーか新幹線という選択肢がある。時間にゆとりがあるときはフェリーを、急ぐときは新幹線を使う。概して暇な身なので、大抵は海路を選ぶことが多い。
かつては東京港から釧路へのフェリーがあったが、今はない。現在は新潟、仙台、名古屋、大洗が出航の起点である。なかでも名古屋―苫小牧の航路がいちばん良い。約四十時間、二泊三日のゆったりした船旅を楽しめる。他の港からの航海は二十時間にも満たず、食事をして眠るともう下船の放送が流れる。慌ただしい。二泊四十時間の旅であれば、そこまで急かされることもない。途中、仙台港で一時上陸し、散歩を楽しむこともできる。多賀城駅まで歩き、食事をしてカフェで本を読む。帰りに果物などを買い込んで船に戻る。
名古屋港を出るときも着くときも、伊勢湾内の航行は実に楽しい。神島や答志島の遠望、名港トリトン、セントレア――見応えのある景色が次々と現れる。
次によいのは、新潟発の便である。新潟までの道行きもまた良い。埼玉を抜けると、左手に荒船山、妙義山、榛名山、赤城山が連なり、やがて三国峠へと向かう。妙義や榛名の向こうには浅間山の雄姿も望める。新潟ではたいてい前泊する。二泊することもある。いつも泊まるホテルは信濃川にかかる美しい橋のたもとにあり、部屋からの眺めも素晴らしい。古町には行きつけの食事処やバーもできた。二泊でも足りないくらいである。昼にはホタテの炊き込みご飯と野菜スープのうまい店があり、老舗の食品加工会社が始めたカフェだ。食後には炊き込みご飯の素や鮭の焼き漬け、鱈や鮭の粕漬けなどを買い、自宅に送る。
新潟港からは、昼に出て翌朝早く小樽に着く便と、夜に出て翌日の夕方に苫小牧東港に着く便がある。苫小牧東に着くときは、たいてい札幌で一泊する。小樽に早朝到着する便のときは、高速を使わずオロロン街道を海沿いに北上することもある。途中、雄冬の滝を見て、増毛と留萌を経て旭川へ抜ける。
雄冬はかつて陸路がなく、増毛との間を結ぶ連絡船が唯一の交通手段だった。海が荒れれば孤立する。北海道本土にありながら、まるで孤島のような環境だった。だからこそ、道路の開通は悲願だったに違いない。長い難工事の末、1981年にようやく開通し、札幌から増毛まで陸路で行けるようになった。ところが、この開通で雄冬を訪れる人が減り、宿泊施設も少なくなったという。連絡船でしか行けない「陸の孤島」という特別感が、道路の完成とともに失われたからだという説明である。なるほどと思うが、まだ確かな裏付けは見つけられていない。
留萌にはかつて「ハワイアンカフェ」があった。ハワイアンクロスで飾られ、BGMはハワイアン。店主はアロハ姿で、パンケーキとコーヒーを出してくれた。窓の外では猛吹雪――そのギャップが楽しかった。残念ながら、だいぶ前に閉店してしまった。小樽から高速で紋別へ向かう際は、旭川で一度降りて「買物公園通り」のコメダ珈琲に寄る。日本最北の「名古屋モーニング」を味わうためである。
新幹線や特急での移動は、どうしても無愛想な旅になりがちだ。紋別から東京へ列車で帰るときは、札幌まで車で行き、そこで車を預けて特急と新幹線に乗り継ぐ。数年前、札幌発の特急に乗ったときのことを覚えている。列車が動き出し、ドアは閉まり、ホームと別の列車の間の狭い空間を滑らかに走り出す。車内放送が流れる。出発時刻、到着予定時刻、途中停車駅の案内――そして最後にこう告げられた。
「なお、本特急〈北斗〉には車内販売および自動販売機の設置はございません。あらかじめご了承ください。」
列車はすでにホームを離れ、ドアも固く閉ざされている。ここで事件が起きれば完全な密室殺人だ。今さら「あらかじめご了承ください」と言われても、どうしようもない。「おととい来やがれ」である。この“密室おととい来やがれ事件”以来、僕は「あらかじめ」という言葉に過剰に反応するようになった。今では、耳にするたびに丁寧に収集している。
「あらかじめ」の意味を知らない人はいないだろう。多くの人の記憶のどこかには、その意味がきちんとしまわれているはずだ。それでも、取り返しのつかなくなった後に「あらかじめご了承ください」と言う例は星の数ほどある。実のところ、陸路より快適なはずの海路のフェリーでも、同じような放送が散りばめられている。喉の渇きや空腹に苦しまぬよう、乗る前に備えを万全に――そう、“あらかじめ”用意しておくことが求められているのだ。
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細谷辰之(福岡県メディカルセンター医療福祉研究機構主席研究員・日本危機管理医学会専務理事)
◇◇細谷辰之氏の掲載済コラム◇◇
◆「トランプ考」【2025.6.10掲載】
◆「ソドム郊外の戦い」【2025.3.4掲載】
◆「ペルセウスの妻が川を渡る方法を考えて」【2024.12.10掲載】
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