明子さんのピアノ
清宮美稚子 (編集者・『世界』元編集長)
「被爆者 初めて10万人下回る 被爆の実相などの継承 課題に」――広島と長崎に原爆が投下されて80年、被爆者の数が今年3月末時点で9万9130人となり、初めて10万人を下回ったことが厚労省のまとめで分かったと、7月1日にNHKが報じた。被爆者の平均年齢は86.13歳だという。被爆の実相や核兵器廃絶への取り組みをどのように継承していくかという大きな課題を、この報道は危機感を持って伝えている。
被爆者団体の多くが高齢化で活動が難しくなり、存続が危ぶまれる状況の中、被爆者に代わって体験を語り継ぐ様々な取り組みも行われている。NHKの報道では、「被爆体験伝承者」や「家族・交流証言者」などが紹介されているが、ここでは、19歳で被爆死した河本明子さんと、明子さんが愛奏していたピアノの話を紹介したいと思う。音楽で原爆の記憶を伝え、未来に繋げる物語である。
明子さんの生い立ち
1888年広島県に生まれ、アメリカに渡ってカリフォルニアで保険会社の外交員を務めていた河本源吉さんと妻シヅ子さんの間に可愛い女の子が生まれたのは1926年5月25日のことだった。源吉さんは「養育日誌」をこまめにつけるなど、「明子」と名付けたその子を両親は慈しんで育てた。6歳になった頃、明子さんにピアノが与えられた。元々は源吉さんがシヅ子さんにプレゼントしたもので、明子さんが生まれた1926年に造られた米ボールドウィン社製のアップライトだった。
アメリカでの反日感情の高まりなど、様々な要因があったようだが、河本さん一家は1933年1月に帰国し、故郷の広島で新生活を始めた。明子さんがちょうど幼稚園から小学校に上がる時期だった。明子さんのピアノも一家と一緒に海を渡った。しばらくして一家は広島の中心部から数キロ離れた三滝の丘に居を構えた。
すくすくと成長した明子さんは、ピアノのレッスンに通うだけでなく、学校のオーケストラに参加するなど、音楽が大好きだったようだ。1937年に日中戦争が起こってからは明子さんの生活にも戦争が影を落としはじめ、1939年、市立第一高女へ進学した頃からは、勤労奉仕へ出かけるようになる。1943年には女学院専門学校家事科(現広島女学院大学)に入学。戦況悪化の中でも、明子さんは勉強や、ピアノと音楽への情熱を持ち続けていたという。
1945年8月6日
その日、明子さんは朝から女学院に程近い税務署へ勤労奉仕に行っていた。体調が思わしくなかったが無理して出かけたという。爆心地からは約1キロの距離。明子さんは原爆の爆風で飛ばされ、気がつくとトラックの下に転がり込んでいた。
途中、渡らなければいけない川がある三滝の自宅まで、どうやって徒歩で戻ったのか、正確にはわかっていないが、明子さんは必死で帰ってきた。自宅近くで倒れているところを発見され、家に連れ帰った家族は明子さんを必死で看病したが、翌7日、息を引き取った。死因は急性放射線障害。両親は、明子さんの亡骸を自宅の庭で荼毘に付した。愛するわが子をこのような形で喪って、しかも自分たちの手で荼毘に付さなければならなかったとは、どんな気持ちだっただろうか、想像もできない。
三滝の丘にある河本家の自宅も原爆の爆風で被害を受けた。明子さんが愛奏していたピアノの側板にはガラス片がいくつも突き刺さった。
主を喪ったピアノは、戦後、河本家に下宿した音大生などが弾いて両親の心を慰めていたようだが、源吉さんが1989年に亡くなり、シヅ子さんも次男の家族が住む横浜に越してからは、無人の家と共に、しばらく沈黙することになる。
物語の始まりと広がり
それからの物語は、偶然が偶然を呼ぶ感がある。2002年冬のある日、「ある方のお宅が取り壊されることになったのだが、その家にはアメリカから持ち帰ったという古いピアノがある。そのピアノも一緒に片付けるそうだ…」という話を偶然聞いたフリーのピアノ調律師、坂井原浩さんは、翌日すぐその家を訪ね、実際にピアノと出会った。「これは捨ててはいけないピアノです」、そう確信した坂井原さんは、一旦預かることにしたが、結局そのまま手元に置くことになる。家の解体がほどなく始まるという時点で、坂井原さんが明子さんのピアノを救ったのだった。
折しも「被爆ピアノ」という言葉が一般的に知られるようになった頃だった。2003年から広島の平和イベントに携わっていた二口とみゑさんは、以前河本シヅ子さんと交流があり、シヅ子さんの家にピアノがあったことを覚えていた。原爆投下60年の2005年に、あのピアノでコンサートがしたい、そう考えた二口さんが坂井原さんと連絡を取り合う中で、これも偶然だが音楽事務所KAJIMOTOの佐藤正治さんとつながり、2005年に「被爆ピアノ・チャリティコンサート」が実現した。坂井原さんは、ほとんど音の出なくなっていたピアノを、コンサートのために約半年かけて丁寧に修復した。悪くなった部分だけを慎重に交換し、外側に残る傷跡はそのままに…。
その後、二口さんは、自らも立ち上げに参画した市民グループ「HOPEプロジェクト」を拠点に、明子さんのピアノを広島市内の小中学校の平和学習のために貸し出す活動を続けていた。2013年8月6日には、神崎小学校(『はだしのゲン』の作者中沢啓治の母校)での平和学習の様子を地元広島テレビが全国中継した。その際、明子さんのピアノを弾いたのは広島出身で被爆3世のピアニスト、萩原麻未(2010年ジュネーヴ国際音楽コンクールで日本人初の優勝)だった。
アルゲリッチ登場
「Music for Peace ~音楽で平和を~」を掲げ、被爆地広島のプロ・オーケストラとして、演奏を通して平和のメッセージを発信している広島交響楽団。その2015年の被爆70年記念事業でマルタ・アルゲリッチとの共演が実現したことから、物語は新たな展開を迎える。
この世界的ピアニストを広響に紹介したのは、アルゲリッチからの信頼も厚いKAJIMOTOの佐藤さん。8月の他のスケジュールを全てキャンセルして広響とのプロジェクトを選んだアルゲリッチは、記念すべき8月5日のコンサートでベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番を披露、公演は大成功だった。これが縁でアルゲリッチは同年12月、広島交響楽団から「平和音楽大使」の称号を贈られることになる。
さて、公演翌日の6日朝にアルゲリッチは平和記念式典に参列、7日にあるワークショップに顔を出した。アルゲリッチの次女で共に来広していたホロコーストの研究者、アニー・デュトワ・アルゲリッチさんがアウシュヴィッツに行ったことのある若者たちと討論するというものだった。舞台にはあのピアノも置かれ、萩原麻未がショパンの曲などを演奏した。ワークショップが終了すると、アルゲリッチは真っ直ぐに舞台に歩み寄り、ピアノの状態をひとしきり確認した後、すぐに弾き始めた。明子さんのピアノとアルゲリッチが出会った瞬間だった。アルゲリッチが感銘を受けたことは、「このピアノはショパンのwater memoryをもっているようね」という感想に表れている。明子さんがショパンを好んで弾いていたことをこのピアノはよく覚えている、明子さんのピアノに接したアルゲリッチはそう感じたのだった。
ピアノ協奏曲《Akiko’s Piano》
広島交響楽団は、被爆75年となる2020年8月の公演のために、イギリスを拠点に国際的に活躍する作曲家、藤倉大に新作のピアノ協奏曲を委嘱していた。初演のピアニスト、そして曲の献呈先、共にアルゲリッチを想定してのことだった。快諾した藤倉が考えたのは「明子さんのピアノの視点で曲を書きたい」ということだった。藤倉は2019年2月に来日、広島市郊外にある坂井原さんの工房に3日間通い詰め、明子さんのピアノに実際に触れながら、ピアノ協奏曲のカデンツァ部分の作曲に注力した。
ピアノ協奏曲第4番《Akiko’s Piano》が完成したのは同年7月のこと。約20分の作品で、終盤のカデンツァ部分には明子さんのピアノが使用される。ピアニストは、それまで弾いていたグランドピアノから、ステージ上を歩いて明子さんのピアノに移るという趣向だ。
完成した曲の楽譜は2019年8月、藤倉からアルゲリッチに手渡された。しかし、2020年8月5、6日に行われた広島交響楽団「2020〈平和の夕べ〉コンサート」にアルゲリッチの姿はなかった。猛威を振るっていたコロナ禍のために来日がかなわなかったのだ。代わって協奏曲初演のソリストを務めたのは萩原麻未だった。
物語は続く
2025年、被爆80周年がやってきた。この年の広島交響楽団〈平和の夕べ〉コンサートは8月5日に広島、7日に大阪、8日に東京で行われ、大阪と東京では明子さんのピアノがホールロビーに展示された。
8月8日、東京の会場で驚くべき発表があった。10月中旬にアルゲリッチが来日し、広島交響楽団が「平和音楽大使マルタ・アルゲリッチ特別公演」を広島(16日)と岩国(18日)で開催するというのだ。人気ピアニストの角野隼斗ほかを特別ゲストに迎える。角野がプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番、アルゲリッチは2015年に広響と初共演したベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番を弾く。角野は2024年5月、アルゲリッチが共演する広島交響楽団特別定期演奏会を聴きに来広した機会に、明子さんのピアノとも出会っていた。
特別公演前日の10月15日には、アルゲリッチと共に角野ほかも出演する〈被爆80周年 Music for Peace~「明子さんのピアノ」支援コンサート〉も開かれることになった。明子さんの記憶を聴く人に想起させるとともに、ピアノの保存・維持管理に資するようにという主催者の思いもあるだろう。
マルタ・アルゲリッチも84歳になる。10月に無事来日することを祈念すると共に、次の機会にはぜひアルゲリッチのソロで、ピアノ協奏曲《Akiko’s Piano》を聴きたいというのは共通の願いだろう。《Akiko’s Piano》は今年の〈平和の夕べ〉コンサートに先立つ7月、広島交響楽団と小菅優のソロにより5年ぶりに再演された。ベルリンを拠点に世界的に知られる小菅は、この曲のカデンツァ部分(《Akiko’s Diary》という曲名がついている)を自身のリサイタルで取り上げるなど、明子さんのピアノに共鳴しているピアニストの一人である。
被爆と戦後の忘却を生き延びた明子さんのピアノは、現在、広島市平和記念公園内レストハウス2階に常設展示されている。広島の市井の人々や関係者の努力が実を結んで音楽の輪は世界的アーティストたちともつながり、明子さんの記憶を奏で継ぐその響きは、音楽を通した平和へのメッセージとなって世界に広がっていく。
【参考文献】『明子のピアノ—被爆をこえて奏で継ぐ』(中村真人著、岩波ブックレット、2020年7月刊)
【ご案内】10月のアルゲリッチを迎えての3回の演奏会についてのお問い合わせは、広響事務局 (TEL:082-532-3080)まで。
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清宮美稚子(編集者・「世界」元編集長)
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