矯正医療に抜本的な改革を
木原育子 (東京新聞特別報道部記者、社会福祉士、精神保健福祉士)
この国にまっとうな医療を受けられない場所がある。刑務所や拘置所などの刑事施設だ。拘禁刑が始まった今年6月、金沢刑務所(金沢市)や東京拘置所(東京都葛飾区)で勤務していた医師らが立て続けに、「異常事態」の声を上げた。何が起きていたのか。あまり知られていない矯正医療のあるべき姿を考えた。
■実態は…
カビだらけの壁や物品庫、穴が開いた天井…。20年前の酸素ボンベがそのまま放置され、人工呼吸に使う救急バッグも劣化して使いものにならないー。
東京都内で会見に臨んだ金沢刑務所の元女性医師(49)が切々と訴えた。言葉の端々に隠しきれぬ怒りに近い感情も。「被収容者は一般に比べて医療水準が劣ってもいいという根強い差別意識がある。矯正医療を志す医師が、私と同じ被害に遭ってほしくない」と語気を強めた。
事の次第はこうだ。
この女性医師は2022年1月から金沢刑務所に勤務。研究と臨床を両立したかったこの医師にとって、勤務時間が決まっている矯正医療は柔軟に働ける理想的な現場に思えた。一方で、一般医療と懸け離れた現実を突きつけられていく。民間医療機関で勤務していたが故に、その「歴然たる差」に愕然とする思いだったという。
思いは改革へと結実していく。2023年4月に自身が医務課長に就任すると、「医務課改善プロジェクト(PT)」を掲げ、ともに会見に臨んだ非常勤の女性医師(58)を新たに採用するなど、少しでも一般医療に近づけようとのろしを上げた。
■高いハードル
だが、立ちはだかったのは、まさかの同じ職場の医療関係者だった。女性医師たちより長く矯正医療に携わってきた医師らが、受刑者に対して一般と同等の医療を講じることに強く抵抗したのだ。
女性医師が看護師長に点滴の指示をしても拒否したり、別の医師が糖尿病の受刑者のインスリン投与を中止し、命の危険の可能性があったため診察しようとすると、担当医師は拒否し診察させてもらえなかった。
改革派と守旧派の溝は埋まらず、総務部長に訴えたところ、「東京拘置所では医師を2人辞めさせた」などと逆に高圧的な発言を繰り返された。処遇部長には医務課長の執務室への立ち入りを禁止され、診察制限を命じられたという。
2024年5月、どうにもならなくなり、女性医師と非常勤看護師ら改革派で公益通報を実施。すると、今年に入り、女性医師は別の施設に異動を命じられ、看護師も雇い止めに。昨年5月から今年2月まで5度にわたって公益通報を実施したが、抜本的な是正措置は講じられなかった。
女性医師は「慢性疾患がある人を計画的に診るには人員が不足した状態だった。ミーティングも少なく、情報共有もできなかった」と語った。
代理人の海渡雄一弁護士は「被収容者の医療は劣等なものであって構わないとの根強い意識がある。そして、この予算では劣等なことしかやれないとの開き直りがある」と指摘する。
■別の場所でも…
同じころ、東京拘置所でも異常事態が続いていた。
矯正医療を束ねる医務部長(医師)が2023年7月に着任して以降、人事権の乱用を理由にこれまでに3人の常勤医師が退職。人手不足で専門外の治療を常勤内科医に命じて適応障害を発症して休職するなど、不当な人事異動やパワハラが続いてきたと証言する。男性医師(50)が見かねて法務省にこちらも5回にわたって公益通報を実施したが、「不措置」に。一方で、その決定から1週間後、2カ月前に内示する慣例に反し、突然の異動を命じられた他、定年延長を希望する他の医師の延長を認めなかった。さらに本年度、「予算不足」を理由に、非常勤内科医4人を雇い止めにした。
2007年以降、18年にわたって矯正医療にささげてきたこの医師。「正直啞然とした。公益通報に対する報復としか思えなかった」と訴える。
■限られた財源
そもそも刑務所の中の医療環境は2007年施行の刑事収容施設法で、「一般の医療水準に照らし適切な措置を講ずる」と定めている。だが、実態は前述の通り劣悪。なぜ「本音と建て前」は生まれるのか。
まずは財政的な問題だ。
一般的には医師は診療ガイドラインに沿って健康保険が適用される検査や治療を行うが、刑務所の中では、そもそも受刑者は健康保険などが使えず、原則国庫負担。限られた財源の中で行わなければならず、必然的に抑制的になる。刑務所の中の医療費は1人当たりで通常の3分の1以下と言われる。よって、法務省が発行した「矯正医療」に関するパンフレットでも「需要と供給のバランスを配慮し、治療的優先順位を決定しなければならない」と堂々と記しているほどだ。
手遅れになるケースも実際に起きた。「大川原化工機」の冤罪(えんざい)事件では、元顧問相嶋静夫さん=当時(72)=が勾留中に適切な医療につながれず、その後亡くなった。矯正医療で働いたことがある医師は、「氷山の一角だ。医療の前に、そもそも検査ができない」と嘆く。
■特権生む構造
もう一つは刑務所という特殊環境だ。服役経験がある知人は「医師と話すのは至難の業。奇跡的に医療につながり、薬を所持できるのは受刑者の中で大変なステータスになる」と振り返る。処方薬をもらえれば、その薬を別の受刑者に貸したり貸してもらう関係を生み、医師につながることは受刑者の中で「特権」になりえたという。また、一般社会では病院に行くことは仕事ができない、医療費がかかるなど損失の方が大きいが、刑務所では診察の間は刑務作業も免除され、無料で病気を治してもらえる。「こんなにおいしい話はない」と前出の知人。
こんな土壌もあって刑務所側は、受刑者と医療が近づくことを極度に嫌がる構造に陥っている。医師として患者の命を守る責務と、国の治安を守る責任のはざまで、医師としての倫理的な判断について葛藤する場面も多いとみられる。
■慢性的な人手不足
そんな環境も相まって、刑務所の中の医療を担う「矯正医官」(医師)のなり手不足は深刻だ。少なくともこれまで20年近く一度も定員に達していない。
2014年には252人と定員の8割に満たない深刻な医師不足に。その解消策として翌年にフレックス制勤務の導入などを盛り込んだ「矯正医官の兼業及び勤務時間の特例等に関する法律」が成立。定員の9割近くを満たすまで落ち着いたが、今後は受刑者の高齢化に伴い疾病も増えると予想される。
■求められる抜本的な改革
今年6月からは受刑者が更生を目指す「拘禁刑」が始まったばかりだ。更生していく環境を整えるためにも、法に基づき名実共に社会一般の医療水準に合わせていくことはますます重要になってくる。心身の課題を解決せずに社会に戻っても、長く社会にとどまることはできないからだ。
具体的には、財政的な基盤を整えるとともに、矯正医療を民間の病院に外部委託して、矯正医官を刑務所長の指揮命令系統から外すなど、根本から考え直す時期に来ているのではないかとも思う。医師の所管は厚生労働省だが、矯正医療の医師だけが刑務所長の指揮命令下にあり、健康の確保という医師としての本来の責務を阻めているともいえる。
受刑者らはこれまで、医療へのアクセスを極度に制限されてきたが、見過ごされてきたのは、そこに「罰」という意味合いも多分に含まれていたからだろう。だが、懲らしめを意味する「懲役刑」の概念は拘禁刑創設とともになくなったのだから、これまでの環境設定は、より看過できなくなっている。刑務所の医療体制について、いよいよメスを入れる時がきているのではないだろうか。
木原 育子(東京新聞特別報道部記者、社会福祉士、精神保健福祉士)
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◇◇木原育子氏の掲載済コラム◇◇
◆「自己決定」が福祉を変える、施設から地域へ共生のヒントに【2025.4.17掲載】