これで良しとしよう
滝田 周 [(株)東京法規出版 保健事業企画編集2部 編集長]
CCUで絶対安静を命じられる
私が暮らし働いている首都圏では、南岸低気圧が通過する3月に割と頻繁に雪が降る。過ぐる3月もよく降ったが、私はこの時の雪をほとんど見ていない。大学病院のCCU(循環器疾患集中治療室)にいて、絶対安静を命じられていたからだ。
腕には、点滴と採血のための静脈ライン、血圧を常時モニターするための動脈ラインが確保され、気がついたら首にも何かある。おそらく中心静脈栄養のラインだろう。尿道カテーテルがつながれ、オムツも当てられた。サチュレーションが下がると鼻カニューレ、もっと下がるとごついマスクを付けられた。雪を見るため窓に目をやるには体をもぞもぞ動かしたり、少し捻ったりしなければならないが、こんな状態ではそれすら億劫だ。ちょっと動いただけで、すぐアラームを鳴らす動脈ラインも鬱陶しい……。等々の理由で、1週間ほどは、ほぼ天井を眺めてじっと過ごした。
億劫だったのは、鎮静剤と睡眠剤、それに降圧剤等々を集中的に投与されたせいもある。当初は食事を摂ることも許されず、水だけを口にした。入院4日目であったか、夕食にヨーグルト味の栄養飲料が1本だけ出た。甘くて旨かった。人生で1、2を争う旨さだ。栄養が体じゅうに染み渡っていくのが、ハッキリとわかった。翌日から重湯、お粥と進み、一般病棟に移ることができた。
体の奥底から湧いてくる、ドスの利いた禍々しい痛み
それにしても、なぜ、こんな惨憺たる事態になったのか。事の顛末を辿れば、3月最初の月曜日に遡る。
ただでさえ憂鬱な月曜の朝なのに、この日は冷たい雨まで降っていた。冴えない気分のまま、会社のデスクでコーヒーに口を付けた次の瞬間、腹部に激痛が走り、思わず体を折った。息ができない声も出せない背中まで痛い――。体の奥底から湧いてくる、ドスの利いた禍々しい痛みに戸惑いつつ、「コレはまずい」と直感した。
直感は当たっていた。大学病院に搬送され、すぐに造影CTが撮られた。救急医はガラス越しに高いトーンでこう捲し立てた。「痛みの原因は、命にかかわるおっかない病気でした。亡くなった俳優の大杉漣さん、ご存じですよね。あの方と同じ病気ですよ」。なんともぞんざいなもの言いだが、このぐらいのテンションでないと、救急医なんて激務は務まらないのだろう。そんな彼が告げた病名は、「急性大動脈解離」だった。
「合併症は出ない」と「決めた」
「嘘だろ? 参ったな」。太い血管の内膜がメリメリと裂け、まくれ上がっていくイメージが、頭の中でリピートする。心を落ち着かせようと、検査室内に貼られた注意書きを目で追うが、何も頭に入ってこない。
予後が比較的良好な「スタンフォードB型」だったのは不幸中の幸いであった。手術はせず降圧と安静の保存療法で凌げる見通しだが、合併症が出たら話は別だ。脳梗塞、心筋梗塞、腎不全、脊髄損傷、消化管壊死、下肢血流障害……。救急医が挙げる合併症は、どれもシャレにならないものばかりだった。
大動脈解離そのものの知識は多少あったが、合併症のことはあまり知らなかった。脚の切断もあり得るとか、人工透析が必要となる場合もある、といった話を聞き、思考停止した。「自分には、合併症は出ない」と「決めた」。実際、合併症はまったく出なかった。僥倖もあったと思うが、救急医と主治医、看護師、薬剤師、栄養士、理学療法士等々、スタッフの皆さんの力は大きい。この場を借りて深く感謝申し上げたい。
ベッドが、観覧車のゴンドラに?
ただ、せん妄にはずいぶんと悩まされた。心疾患の術後等よりも、大動脈解離の薬物治療中になぜか多く発生するらしい。私の場合、幻覚と現実がシームレスにつながっていた。記憶にある限りでは、たとえば次のような感じだ。
CCUにある夥しい数のモニター類は、各自勝手なタイミングで電子音を発しているが、いくつかは束の間シンクロし、再び互いにズレていく。深夜、その繰り返しを聞いていたら、気がおかしくなってきた。そのうちあたりがいっそう暗くなり、青や赤の光が明滅し始め、なぜかベッドが観覧車のゴンドラとなっていた。ゴンドラは軋みながら、ゆっくりと上昇を始めた(ように感じた)。
ふと見上げると、中空に浮かんだ「眼」が、こちらを凝視している。その視線からは悪意や邪気しか感じ取れず、思わず目を逸らすと、夜勤の看護師さんがPCに向かい、何やら記録を付けている(これは現実)。それを見て「この観覧車に乗ることは、治療のためやむを得ず行う、不快きわまりない処置の一つなのだ」と、無理やり納得しようとした。今にして思えば支離滅裂だが、必死だった。
大丈夫ですか? 「記録係」の看護師さんの声で目が覚めた。すでに朝になっていて、観覧車も「眼」も消え失せている。後日、彼女に聞いたら、「せん妄かな? と思って見ていました。ものすごい表情をされてましたよ」といわれた。
死ぬまでは、生きるだけ
退院は、3月の終わりだった。冬の名残の氷雨が降る中、救急搬送されてから3週間が過ぎ、桜の季節となっていた。病院のある界隈は古い街で神社仏閣が多い。花曇りの空の下、どこの境内の桜も満開目前だった。そんな昼下がり、娑婆に生還した。
娑婆なんて言葉を使ってしまったが、元々はどんな意味なのだろう? ウィキペディアには、「仏教において、釈迦が衆生を教化(きょうけ)するこの世界、すなわちこの世のこと」とある。梵語「サハー」の音写語だが、実は意訳語もある。忍土(にんど)という。そのココロは「苦しみを耐え忍ぶ場所」。仏教は本当に、身も蓋もない。
この「苦しみを耐え忍ぶ場所」に、これから先、どのくらい居るのか、居られるのか、居なければならないのか? さすがに考えてしまう。病を得て、万人を感服せしむる素晴らしい教訓が得られたのではないかとも思ったが、「血圧に注意せよ」以外、浮かばない。それじゃあんまりだから、うんうん唸って出てきたフレーズは「死ぬまでは、生きるだけ」。意味ありげだが、何も言っていない気もする。当たり前すぎて、それこそ身も蓋もない。が、悪くはないとは思う。これで良しとしよう。
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滝田 周 [(株)東京法規出版 保健事業企画編集2部 編集長]
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