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トランプ考

細谷辰之 [福岡県メディカルセンター医療福祉研究機構主席研究員・日本危機管理医学会専務理事]

よその国に入国して何かを始めるには、まずパスポートが必要だ。パスポートがなければ入国すらできない。ただし、パスポートだけで済まず、入国のために査証(ビザ)が必要なこともある。さらに、入国後に何をするかによっては、別の書類や条件が求められる。ビジネスをするにも、教育を受けるにも、社会活動をするにも、資金や人間関係、あるいは知識が必要になる。つまり、パスポートがなければ始まらないが、パスポートだけでは完結しない、ということだ。

年を取れば、食事がだんだん取れなくなる。もちろん、108歳で亡くなる前日まで朝食にステーキを食べていた母方の曾祖母のような例もあるにはある。とはいえ、多くの場合、徐々に食べられなくなるのが普通だ。固形物が咀嚼できなくなり、あるいは嚥下できなくなり、やがて流動食や液体の摂取に移行する。それも難しくなれば、経鼻チューブの挿入や胃瘻の造設が検討される。だが、チューブであれ胃瘻であれ、本人がそれを外してしまうリスクがあるため、身体拘束を余儀なくされることもある。

身体を拘束され、管を通じて栄養を注入されて生きる。生命は維持されているが、尊厳は守られているのか? そう問いたくなる。一方で、「尊厳がない」と断じることにも、どこか傲慢さを感じる。チューブでの栄養摂取は非自律的で不自然だと感じるが、それを可能にした科学技術と、それを享受する個体としての人間のあり方を思えば、それもまた「自然」なのかもしれない、とも思う。

認知症が進行し、自己判断を表明できなくなった人は、「胃瘻は希望しません」とも「ぜひやってください」とも言えない。判断は家族や周囲の人間に委ねられる。経鼻チューブや胃瘻をしなければ、早晩死に至る。とはいえ、施したからといって永遠に生きるわけでもないし、むしろ死を早める場合もないとは言えない。そんな重い判断を、たとえ血縁があるとはいえ、他人である家族がしていいのか? だが、他に判断できる者はいないし、それを医療者や介護者に押しつけるわけにもいかない。だから、家族が判断するという社会的習慣は否定できない。代替案も見当たらない。

ACP(アドバンス・ケア・プランニング)を事前に行っておくことは、一つの道であろう。本人が家族や介護者、医療者と話し合い、自らの意思を表明し、それを共有してもらう。それに基づいて、本人を支える医療や介護のあり方を設計する。とてもスマートな考えだと思う。決して切り札ではないかもしれないが、かなり有効な手段ではある。ただ、一つ引っかかるのは、「最初に定めた時の気持ち」は変わっていないだろうか? 人の考えは、身体や環境の変化によって当然変わりうる。意思の「更新」が丁寧になされているかどうかは、肝心な点である。「これで全部解決」というオチは、やはり存在しない。

介護は、できる限り他人が担うべきだと、僕は思う。施設に入れるならば、それが望ましい。もちろん、経済的・社会的事情やタイミングの問題で、誰もがそうできるわけではないが、それでもなるべく他人に担ってもらう方がよい。親のために子どもが仕事を辞めたり、生活を犠牲にして介護することは、できるだけ避けるべきだ。家族・本人のいずれにも十分な収入がなければ、有料施設の選択肢はない。だとしても、あらゆる制度を活用して、人生を介護で摩耗させない方法をとるべきだ。

現実には、親のために仕事を辞め、生活に苦しみながら介護している子どもたちがいる。そうした人々を労い、サポートする制度は必要だ。しかし、それを「美談」にしてはいけない。負担を軽くする制度や救済措置はあってしかるべきだが、「美談」にすることで、将来同じように追い詰められる人を増やすような空気を作ってはならない。

一方で、「できる限り自宅で一人で暮らしたい」「家族と暮らしたい」という希望も理解できる。僕自身は、どちらかと言えば一人で自宅で気ままに暮らしたいと思っているが、家族と暮らしたいという人がいることも想像できる。ただし、自宅で暮らすには、身体的・認知的な条件がそろわなければ、困難の沼に陥るリスクが高い。「こうすれば全部解決」というオチは、やはりどこにもない。

DNAR(Do Not Attempt Resuscitation:心肺蘇生を試みない)という選択は、患者の尊厳を守り、苦痛の少ない終末を迎えるために、大切な考え方だと思う。ACPと同じく、本人・家族・主治医・介護者が話し合い、本人の意思を尊重して、QOL向上を踏まえて終末の迎え方を設計し、合意を共有する。それが大事で、スマートなやり方であるという点に異論はない。

しかし一方で、少しばかりの違和感と疑念も残る。本人の尊厳と穏やかな最期のため、と言いつつも、心の奥底では「限られた医療資源」や「金銭的コストとベネフィット」が優先されていないか? 目先の「現実論」を優先するあまり、「法の正義」や「人類の種としての生存戦略」が後回しにされていないか? 

DNAR自体には異論はない。たとえ現場の都合や医療資源の効率的配分といった「本音」が背景にあったとしても、それを責める気はない。だが、今の議論には、どこか違和感がある。「生命とは何か」「生きるとは何か」「人は自ら死を選ぶ権利があるのか」「倫理的にどうなのか」——そうした、青臭く、舌足らずで、結論の出ない問いを、もっと重ねなければならないのではないか? それを怠れば、将来に禍根を残すことになるのではないかと、懸念している。ここにも「これで全部大丈夫」というオチは、落ちていない。

「課題解決型」教育がもてはやされるようになって久しい。大学でもそれを謳うところが少なくない。だが、解決できない問いに悩み続けることこそ、我々がホモ・サピエンスである証なのではないか? 課題解決型教育で満足してしまってよいのは、せいぜいチンパンジーとその先の人たちではないか?

「これをやれば全部大丈夫」「この方法なら問題は解決」「私が大統領になれば戦争は24時間で終わる」——そんな切り札が落ちていたら、拾ってみたくはなる。だが、チンパンジーになってしまうのは御免だ。だから、僕はそれを拾わないでおこうと思う。

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細谷辰之(福岡県メディカルセンター医療福祉研究機構主席研究員・日本危機管理医学会専務理事)

◇◇細谷辰之氏の掲載済コラム◇◇
「ソドム郊外の戦い」【2025.3.4掲載】
「ペルセウスの妻が川を渡る方法を考えて」【2024.12.10掲載】
「Nessun dorma!」【2024.8.27掲載】

☞それ以前のコラムはこちらから

2025.06.10