先見創意の会 (株)日本医療総合研究所 経営相談
MENU
オピニオン
最新のオピニオン
今月のオピニオンのバックナンバー
過去に掲載されたオピニオンはこちらです。
 会員の皆様方の投稿を随時募集しております。詳細はページ末尾をご覧下さい。>>>
(掲載日 2006.02.03)
サブテロメア領域の刻印
―染色体の片隅が叫ぶ真実―
<連載3> 発症前診断の限界
投稿者  澤 倫太郎
 日本医科大学生殖発達病態学・遺伝診療科 講師

 この前の稿では、研究成果とビジネス化の問題について触れた。話を遺伝医学の現場に戻そう。遺伝子工学者がつぎつぎに新知見を特許化し、囲い込みを進めるなか、さまざまな情報にふりまわされた挙句、いわゆる「遺伝カウンセリング(遺伝相談)」に駆け込むクライエントも多い。遺伝カウンセリングとは患者・家族の問題提起に対し、対応する遺伝学的情報とすべての周辺状況を提供し、患者・家族が十分にその意味を理解したうえで意思決定をできるように援助する医療行為である。そして、専門家が遺伝カウンセリングをおこなう遺伝診療科をもつ施設は、日本においては現在、全国で146施設しかないのが現状だ。

 遺伝診療科であつかわれるのは、まれな遺伝性疾患に関する相談だけでない。「本人・配偶者・親・子・同胞、その他の血縁者に遺伝性疾患や先天異常の人がいて、自分あるいは自分のこどもが同じ病気になるのではないか」「いとこ同士で結婚したいが、問題はないか」「高齢妊娠(一般には35歳以上)だが胎児が心配」「妊娠中に薬剤を服用したり、感染症に罹患したが大丈夫か」「習慣流産(3回以上、妊娠初期の流産を繰り返す)の原因が知りたい」という相談も遺伝カウンセリングの対象となる。

 現在、遺伝子解析法が莫大な国家予算をつぎこんで進められている一方で、遺伝疾患に対する遺伝子治療は、臨床研究レベルのままで足踏みを続けているのが現状だ。必然的に、遺伝子変異がみつかったとき、患者・家族はどう対応してよいかわからない。行き着く先が発症前診断である。ところが、遺伝子変異がみつかった場合でも、どのくらいの年齢で発症するのか個体差が大き過ぎる(この発症頻度を浸透率という)。

 例えば17番染色体にあるBRCA1遺伝子に変異をもつ女性の場合でも、その人が70歳になるまでに乳癌を罹患するリスク(ライフタイムリスク)は56%〜85%である。一生発症しない場合も無論あるのだ。

 混乱するかもしれないが、逆に、遺伝子検査が陰性だからといって、加齢などのほかの理由で発症する場合もあり得る。ひとたび発症すれば、疾病そのものよりも、莫大な医療費に身を滅ぼされる米国では、詳細なカウンセリングをおこなったうえでも、出生前治療(つまり乳癌を罹患するリスクなら乳房切除である)を選択する率が増加傾向にある。

 こういった実態を理解するためには、米国国立がん研究所・米国国立ヒト遺伝研究所の「遺伝子診断の理解のために(日本語版)」の一読をお薦めする。米国の現状(いま)は、間違いなく日本の近い未来なのだから――。

 欧米で発症前診断がもつ功罪の認識を深め、遺伝カウンセリングの重要性を改めて提起したのは、ハンチントン病をめぐる議論によるところが大きい。ハンチントン病は脳内の線条体の変性によって、通常35歳から50歳のあいだに発症する進行性の神経疾患で、常染色体優性遺伝の形式を持つ。症状の特徴としては、「思考力・判断力・記憶の喪失」、「動作の制御の喪失(不随意運動)」、「感情の制御の喪失」という3つがあげられる。

 ハンチントン病は、1872年に米国医師ジョージ・ハンチントンが、3つの特徴のうちの1つである「不随意運動」をギリシア語の「舞踏(chorea)」と表現したため、「ハンチントン舞踏病」と呼ばれた歴史をもつ。1993年にグゼラらの発見により、第4染色体短腕先端部にあるIT15という遺伝子の中にあるCAG(シトシン、アデニン、グアニン)の繰り返し(リピート)配列が、健常者に比べて、時には2〜3倍以上に重複することによって、発病することが明らかにされた。このことから、発病前に遺伝子検査をして、発病の可能性を判断することが可能になっている。しかし、このCAGの塩基コードのリピートの長さによって、その病勢が異なり、発病しない場合もあることも解明されてきた。

ウェクスラー家の選択 欧米におけるハンチントン病の発症率は10万人に4〜10人と日本の約10倍に上る。しかしながら、常染色体優性という選択の余地のない遺伝形式が発病者の家族に与える心理的負担はあまりに重く、暗い。母をハンチントン病で亡くし、原因遺伝子の発見の末、家族につきつけられるあまりに過酷な「神の予言」、そして、その予言に翻弄される家族のこころの葛藤を隠すことなくわれわれに語りかけるのが、「ウェクスラー家の選択―遺伝子診断と向き合った家族(Mapping Fate : A Memoir of Family, Risk, and Genetic Research)」(アリス・ウェクスラー:Alice Wexler、新潮社)である。

 個人の遺伝子配列が語るすべての真実は、好む好まざるを越えて、血縁すべての者が共有せざるを得ない「神の言葉 ― fate − 」なのである、という意味の重さを、会員諸氏よ、どうか心に留めておいていただきたい。

javascriptの使用をonにしてリロードしてください。
(C)2005-2006 shin-senken-soui no kai all rights reserved.