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(掲載日 2006.02.07)
サブテロメア領域の刻印
―染色体の片隅が叫ぶ真実―
<連載4> 遺伝変異は「保険リスク」というタブー
投稿者  澤 倫太郎
 日本医科大学生殖発達病態学・遺伝診療科 講師

  「遺伝子地図上の神の予言(mapping fate)」に関して、さらに深刻な論点をかかえているのが、小児期での発症前診断である。人類遺伝学会のガイドラインでは「自主性に基づいて決定を行う機能がないと判断され、代理人により決定される場合、それは被験者の利益を保護するものでなければならない。治療法、または予防法が明らかでない成人期以後に発症する遺伝性疾患について、小児期に遺伝学的検査をおこなうのは避けるべきである」とされている。同時に、治療可能もしくは予防可能であっても、心理的圧迫に備えての複数回の検査前カウンセリングが強調されている。

  しかし、医療検査産業が医療施設を巻き込んで浸透していくわが国では、必要最低限のカウンセリングの機会すら与えられていないのが現状だ。なんらカウンセリングのないままに、ある種の甲状腺癌に関して、子供の遺伝学的検査がおこなわれ、発症前治療(摘出術)を勧められて、あわてた両親が遺伝相談に訪れるケースすらある。少なくとも大きな予算を割いてカウンセリング体制の整備の普及に努める米国に比べ、日本国民は過酷な状況に晒されているのである。

 遺伝子の変異は、必ずしも遺伝子そのものの仔細な解析をせずとも、その遺伝子が作り出す蛋白・酵素の欠失を調べることで同定できる。この生化学的検査法を利用して、わが国において、出生した100%に近い新生児を対象にした国家的規模の遺伝学的スクリーニングが日常的におこなわれていることは案外知られていない。

 新生児マス・スクリーニング検査がそれで、いわれれば「あぁ。あれか」と納得される会員も多いだろう。新生児マス・スクリーニングは、早期発見による治療効果が明らかな先天性代謝異常症の「フェニルケトン尿症」、「ホモシスチン尿症」、「メープルシロップ尿症」、「先天性甲状腺機能低下症」、「ガラクト―ス血症」、「先天性副腎過形成」の6疾患について、国の指導のもと、地方自治体が実施する「発症前遺伝検査」で20年間にわたり98%以上の実施率で施行されている。

 浸透率の問題もあり、同じ疾患でも、個人の発症の度合いは異なってくる。しかしひとたび、いずれかの診断名がついただけで、一律に保険加入を拒否される事例が相次ぎ、問題になったことがある。

 重ねて言う。これらの疾患群は早期治療でほとんど症状は抑えられる。だからこそ「国家主導」でスクリーニングされているのだ。

 拒否された保険商品のなかには所謂「生命保険」だけではなく、「学資保険」も含まれていた。患者の家族やその他の関係者が粘り強く訴え続けたおかげで、郵便局の簡易保険加入こそ、ある一定の条件を満たすことで認められるようになった。しかし、民間保険は、いまだに加入拒否が常識なのだ。さらに言えば、ダウン症などの染色体変異のこどもたちに対しては、郵便局の対応はまったく変わっていない。学資保険を含めたほとんどの保険商品が加入拒否されているのである。

 数年前、ダウン症のご子息を優しく抱きしめる男性の写真が、「あなたにあえてよかった」と歌う小田和正氏のやさしい旋律とともに流れたCMが人気を集め、その後、そのご家族の話がテレビドラマ化までされたのを覚えているだろうか。家族の深い愛に、思わず涙した会員諸氏にお尋ねする。あのCMが、民間保険のコマーシャルだったといえば、どうお感じになるだろうか?

 13世紀の宗教的偉人、親鸞聖人は『教行信証』の中でこう語る。(注1)

 ――龍樹大士世に出でて、悉く有無の見を摧破(さいは)す

 紀元2世紀ころ、インドに龍樹菩薩が現れ、当時はびこっていた有無の邪見を徹底的に見破ったという。

 続けて親鸞は人々に、こう説くのである。

 ――浄土を論ずるもの常に多けれども、その要を得てただちに指(おし)ふるもの、あるいは少なし

  浄土(真実世界)を論じるものは多い。しかしその要(本質)をとらえ、本当の真理に触れようとするものは存外に少ないのだ。

 会員諸氏よ、いまこそ勇気を持って真実と対峙していただきたい。次回は、この問題の本質について、ある日本の判例を例にとってさらに深く考察しよう。


(注1)
出典『教行信証』「信巻」正信偈 浄土真宗聖典注釈版249頁。龍樹とはサンスクリット語でゼロ(無垢)を意味する。この文に続いて意味の深い一文が添えられている。「ただ疑・愛の二心つひに障礙なからしむるは、すなわち浄土の一門なり」つまり、「猜疑心や、執着することのない無垢な心にこそ、真理の門はおのずと開かれる」のである。

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