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(掲載日 2006.01.31)
サブテロメア領域の刻印
―染色体の片隅が叫ぶ真実―
<連載2> 立ちふさがるダブル・スタンダードの壁
投稿者  澤 倫太郎
 日本医科大学生殖発達病態学・遺伝診療科 講師

  2003年、ヒトゲノムの大規模シーケシングの終了が宣言された。ヒトの設計図としての内なる宇宙(インナースペース)への探索は、当初、人類に究極の福音をもたらす夢を実現するものと信じられてきた。これまでに4000以上の疾患が、母親、あるいは父親から受け継いだ変異遺伝子に起因すると考えられていることからすると、遺伝子情報の解明は、そうした疾患の原因を突き止め、治療法が確立できる手立てとして、多くの期待を集めてもおかしくはない。しかも、実際に、1600以上の疾患に関しては、関連遺伝子の染色体上の局在が明らかにされている。

 この解析を可能にしたのは、遺伝子情報を4種の塩基の組み合わせによるデジタル・シグナルとしてとらえ、高速演算処理できるスーパーコンピューターの開発によるところが大きい。人類共通の夢の達成という大命題に対する、医学と工学の見事なコラボレーションの成果といってよいだろう。そして、解析は、この連載のメインタイトルにも記した「サブテロメア」と呼ばれる染色体のほんの末端の微細な領域にまで及び、新たな発見につながるのである。

 サブテロメアにまつわる真実は、これから述べる遺伝情報の扱い方を倫理面で深く再考し、議論しなければならない要素を孕んでいる。これについては、ゆっくり後述する。まずは、こうして解明される遺伝情報の取り扱われ方が現在どのようになっているのかという現状把握と、それらに関連した問題点について述べるとしよう。

  まず、第一に、コンピューターのなかでオン・オフだけで処理される遺伝情報は、その裏に患者(われわれの業界ではクライエントと呼ぶ)の血縁全体におよぶ生体情報の無償の資料提供という個人、そして血族の連続した意思決定プロセスが内包されていることを忘れてはならない。しかし、このことの重要さまでは、工学系研究者には伝わっていない、というのが現実のようだ。。

  トランスレーショナル・リサーチ(橋渡し研究)という考え方がある。その定義は、「Nature Medicine」誌に掲載された論文「What is translational research?(トランスレーショナル・リサーチとは何か)」(Nature Medicine, 8: 647, 2002)でも議論されたが、医学研究者なら、当然のことながら「基礎研究で得られた知見を、いかに安全に臨床に展開するか」が目的なのだと考えるだろう。しかし、多くの工学系の研究者や、経済産業省の関係者は「基礎研究で得られた知見を、雇用創出につなげる研究」などの解釈を加え、ダブル・スタンダードの壁をつくってしまった。。

 2006年1月14日付の米科学誌サイエンスによれば、米政府の遺伝子ベースに登録された24,000の遺伝子のうち、18.5%に当たる4382の遺伝子について、計4270件の特許が認められているという。

  医学と遺伝子工学、畜産工学など様々な領域での「知の融合」は医学に大きな発展をもたらした。しかし、輝かしい光ほど、落とす陰影(かげ)は暗く濃い。年末年始に本サイトに掲載された拙稿「国家主導の生命工学がもたらした悲劇 −バイオ・コリア国家プロジェクトのひとつの帰結−」でも述べたとおり、人間の体を資源とするバイオ産業における医工連携の認識の壁は、特にそれが国家主導の産業振興を目的とした連携であればあるほど、医学と工学いずれにも、悲惨な結末をもたらすのである。

  研究成果とビジネス化という、手段と目的を取り違えた末の、データ捏造に関しては、日本も対岸の火事ではいられない。今話題のRNA干渉のビジネス化にまつわる暗い影(東京大学の多比良和誠教授のグループの論文捏造疑惑(注1))に関しては、本サイトのコラムニストでもあるジャーナリスト、阿部重夫氏のWeb記事「ネット愛国主義の胚」(http://www.facta.co.jp)をご覧いただきたい。それにしても彼の手厳しい批判は、同じ大学研究者として首がすくむ思いだ。

  自らの仮説に基づく新知見とその論文が、これまで他の研究者たちを悩ませてきた未知の領域を切り裂いて一条の光明をもたらす可能性を見出したときの興奮、それは研究者にとっては、まさしく「神(絶対の真理)にすら肉薄する至高の瞬間」であることは同業として十分理解できる。しかし同時に研究者は、それに驕る事のない謙虚さと慎重さと併せ持っていなければならないのも、また真理なのだ。自宅を医神アスクレピオスの仮神殿にして、医学の普及にも努めたギリシア悲劇最高の戯曲作者のソポクレス(注2)は、その悲劇の劇中からこう語りかけるのである。

 「神々に対する敬意は決して蔑ろにしてはならぬ。驕れるものの昂ぶった言葉はやがては罰せられ、ようやく年をとるに随い、叡智がどれほど大事なものかを身に沁みて悟るのだ」
(注1)
東京大学の多比良和誠(たいら・かずなり)教授のグループのリボ核酸(RNA)に関する論文の偽造疑惑問題。東京大学大学院工学系研究科は、1月27日、同教授のグループの論文について、4本とも再実験を求めた期限内に実験の再現性が認められなかったとの調査委員会報告書を発表した。
(注2)
Sophokles(紀元前496年 - 紀元前406年)はアテナイの悲劇作家。大ディオニュシア祭で24回もの優勝を重ねた古代ギリシア三大悲劇詩人の一人。劇の作法について数編の論文を著すなど理論面を重視し、ギリシア悲劇というジャンルを完成させた。123編の悲劇を書いたと言われるが、欠けずに現存するのは僅か7編。絶対なる運命=神々に翻弄されながらも、悲壮に立ち向かう人間を描いたものが多い。中でも『オイディプス王』はギリシャ悲劇中の珠玉とされ、シェイクスピアをはじめ、西洋文学に多大な影響を与えている。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

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