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映画「亡国のイージス」が問いかけるもの 關田 伸雄
(掲載日 2005.6.28)
 7月30日から全国ロードショー公開される映画「亡国のイージス」の試写を見た。事前に福井晴敏氏の原作を読んでいたが、映像による問いかけは大きな衝撃だった。戦後政治がきちんと国民に提示して来なかった「この国のかたち」。映画が正面から見据えている「亡国」は安全保障問題にとどまらず、日本人としての生きよう、社会保障制度を含む国家としての機能にまで及んでいる。

■置き去りにされた「この国のかたち」論議

 「亡国のイージス」は、米国の開発した化学兵器を奪取した工作員(ホ・ヨンファ)らが海上自衛隊のイージス護衛艦を乗っ取り、艦を奪還し化学兵器が東京に撃ち込まれるのを阻止しようとする海上自衛官らが、そのグループと死闘を演じる――、というストーリー。真田広之、中井貴一、佐藤浩市、寺尾聰らの重厚な演技に、防衛庁、海上・航空自衛隊の全面協力によって実現した「90%が実写」という本物の迫力が加わり、日本映画史上空前のスケールを感じさせる映像に仕上がっている。

 全編を貫くのは、「戦後60年、この国がいかに“あるべき姿”を考えずに来たか」という問題提起だ。安全保障分野では、「平和憲法」を言い訳に「専守防衛」というお題目を唱えながら、日米安保体制に身を任せて自らの手だけでは自国民の生命や財産を守れない状況に甘んじてきた。

 社会保障分野でも右肩上がりの経済成長が永遠に続くという錯覚に浸りきったまま厚生官僚のおごりを許し、医療保険、年金制度の財政破綻を防ぐ手立てを考えないできた。トータルな視点を欠いた制度設計や政策立案は「事務方」と呼ばれる官僚の得意とするところであり、政治家は自らのビジョン構築をないがしろにして官僚のつくった書類に踊らされ続けた。

 国のかたちが明確になっていない国家=「亡国」に対して他国が敬意を払うわけがない。場当たり的な対応しかできない政治家に対する国民の不信も増大する一方だ。中韓両国が小泉首相の靖国神社参拝にかみつき、未来永劫、謝罪を求め続けようとしているのもこの国がはっきりした国家像をもたないからだ。

■憲法論議の中で国家ビジョンを語れ

 現在、衆参両院、各政党で進められている憲法改正論議は、こうした閉塞状況を打破する起爆剤になるかもしれない。憲法改正の是非はともかく、憲法という国の基本法を論議することが、安全保障、社会保障といった各分野における将来ビジョンの明確化に寄与すると考えるからだ。条文の言葉いじりに終わるのではなく、改正論議の中で政治家同士が自らの国家ビジョンをはっきりと語り、十分に議論を戦わせることを望む。

 言葉尻までは明確に覚えていないが、「亡国のイージス」の中に「戦争と戦争の間が平和なんだと思う。俺はそれでいいんじゃないかと思うな」という官僚のセリフがある。気持ちとしては十分に理解できる。大方の日本人のメンタリティーはこの言葉を「その通り」と受け入れるだろう。だが、国家の舵とりに責任を持つ為政者=政治家はそう考えてはいけない。

 国民の生命がかかるという意味では、きちんとした社会保障の確立も平和の創造と同じだ。少子高齢化に手をこまねいているだけでは政治の意味はない。トータルなビジョンを国民に示してあるべき姿をともに考える。社会保障給付費抑制のために命とはまったく関係がない経済指標を使うといった小手先の「改革」でごまかし、「あるべき姿」論議は有識者会議に丸投げしたあげく「あとは知らない」という対応をする。そこに政治の存在意義はない。
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