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先見創意の会

三大奇書

平沼直人 (弁護士、医学博士)

『アフリカの印象』
奇書、奇妙な本といえば、レーモン・ルーセル(1877-1933)の小説『アフリカの印象』(Impressions d’Afrique)を筆頭に挙げる人が多い。
2001年、白水社から新装版にて復刊されたので(岡谷公二訳)、この奇書に挑んだが、ポニュケレ国の女装した王様タルーの御前で、大ミミズがチターでハンガリアン舞曲を奏でたり、王の息子レジェドが齧(げっ)歯目の小動物の唾液を利用して空を飛んだりといったまさに奇想が次から次へと脈絡なく延々と100頁以上に亘って繰り広げられる。
この光景をぼんやり眺めるのではなく、文字で読むのは、ことのほか大変で、先に進めず、断念してしまった。

さて、今回、あらためて手になじみやすい平凡社ライブラリー版を買い求め(白水社版を文庫化したもの)、再挑戦した。
頑張って177頁まで読むと、そのあとストーリーらしきものが現れ、ここまでの種明かしもされ始めるので、全文371頁を読了することができた。保坂和志の解説には、最初の十数ページで挫折した経験が書かれていた。
訳者解説を読むと、初版本には、平凡社版では178頁以下にあたるいわば第2部から読み始めることを勧める小さな紙片が投げ込まれていたそうである。

一切の意味を拒否したルーセルは、言葉そのものが紡ぎ出す物語を時間をかけてていねいに作り上げたのだそう。
(フーコーの『レーモン・ルーセル』法政大学出版局《叢書・ウニベルシタス60》を読んだところで、ルーセルは理解し切れない。)

なお、熊本の伽鹿舎という出版社から、坂口恭平が挿絵をし、フランス語の原文が下段に並記された國分俊宏の抄訳が出版されている。平凡社版ではなく、こちらから読むのもまたお薦めである。

『家畜人ヤプー』
私たち実務法曹は、判例時報(旬刊)や判例タイムズ(月刊)といった判例雑誌には、それなりに目を通しており、最新の判決に触れたり、あるいは自分が担当した事件が掲載されていたりするとちょっと嬉しかったりするものだが、2005年の夏、回覧されてきた判例タイムズ1180号の巻頭で目にしたのは、倉田卓次元判事の「老法曹の思い出ばなし⑹――「家畜人ヤプー」」であった。

『家畜人ヤプー』は、昭和31年にカストリ雑誌と言ってよい「奇譚クラブ」で連載が始められたSM小説であり、かつ、スケールの大きなSF小説である。2000年後の宇宙帝国イースでは、白人女性たちが権力を握っており、日本人の末裔であるヤプーは工場で成形され肉便器等として白人女性らに供されている。

この世界的奇書の作者は、沼正三と名乗り、その真の作者が何者であるのか、今もって謎であるが、倉田元判事は、自身が作者であるとの報道や噂を、奇譚クラブの愛読者であり、作者に好事家(こうずか)の立場からアドバイスを行ったことやマゾヒズムの性向を告白しつつ、法律関係者しか目にせぬこの雑誌を通じて、断じて否定したのである。

倉田元判事は、東京地裁民事交通部の名物裁判長であり、東京高裁判事を退官後は霞が関の公証役場で公証人をしていたから、当時はご本人を直接に知る人も多く、なんとなく法律家の間では倉田さんがヤプーに違いないという空気はあった。ご本人は何としてでも否定しておかねばならなかったのだろう。作者は三島由紀夫だと仄(ほの)めかしているようにも読める。「詰まらぬ虚栄心から」、同好者に作者として振る舞ってしまったと懺悔さえする。倉田卓次(1922-2011)は作者でない、それが武士の情けというものであろうか。

角川文庫版は、文字も小さく読破には我慢が要る。石ノ森章太郎の漫画版は、中途半端な印象。その他、幻冬舎アウトロー文庫などからも出されている。

『わが闘争』
はて、世界三大奇書といった場合、3番目に来るのは何だろうか。
『金瓶梅(きんぺいばい)』とすることもあるようだが、中国の四大(しだい)奇書(三国志演義、水滸伝、西遊記、金瓶梅)との混乱があり、四大奇書の場合には、優れた書物という意味らしいし、金瓶梅が世に知られるのは性愛文学としての側面であり、三大奇書の中に2つもセクシャルなものが入るのは如何かと思う以上に、私自身、映画は観たことがあるが、原作を読んだことがないので、躊躇を覚える。

敢えてヒトラーの『わが闘争』(Mein Kampf)を第三の奇書として数えたい。
虚飾に満ちた半生記とフェイクだらけのプロパガンダ。
ドイツ国民を誤った方向に扇動し、無辜(むこ)のユダヤ人を迫害した世紀の“悪書”である。

私たちは、この奇書を知ることで、国内外の独裁者に対抗することができる。

本書は、角川文庫版で、小さな活字の上下2冊組みと大部である。
アメリカ国立公文書館で、戦後、発見されたヒトラーの口述筆記は、『続・わが闘争 生存圏と領土問題』として、こちらも角川文庫から出版されている。ヒトラーが全世界を巻き込んだ狂気がここにもある。

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平沼直人(弁護士・医学博士)

◇◇平沼直人氏の掲載済コラム◇◇
「タトゥー最高裁決定と医業独占」【2022.8.4掲載】
「悪」【2022.4.26掲載】
「医の倫理と法」【2022.4.7掲載】
「江戸三山」【2021.12.14掲載】
「日本版 ❝善きサマリア人法❞を!」【2021.10.7掲載】

☞それ以前のコラムはこちらからご覧下さい。

2022.09.13