自由な立場で意見表明を
先見創意の会

新型コロナ診療にかかる日本の医療と病院の現状について、正しい理解に基づく議論を期待する

佐藤敏信 (久留米大学教授・医学博士)

はじめに―言葉への批判

新型コロナ禍で、いわゆる医療逼迫という状態が起こった 。

医療関係者「以外の」専門家らしき人々の間で、必ずしも正しいとは言えない主張が続いている。

とりあえずは日経新聞の記事を例に(注1)とってみよう。日経新聞は、一般的に他紙よりも比較的冷静な筆致で、しかも単なる批判にとどまらず提案も込められていることが多い。一方で、医療を含む社会保障分野においては、財務省主計局の広報部門的なスタンスも取っている。 

そうしたことを念頭に置きながら、彼らの指摘するところをあげてみよう。
1.日本の病院・病床は先進諸国に比べて多いが、新型コロナ禍において十分に対応できなかった。
2.その理由として、急性期病院・急性期病床と自称しているところは多いが、実際には、患者の受け入れその他で役割を果たせなかった。特に民間病院で顕著だった。
3.解決のためには、小病院が林立する現状をあらため、そうした病院の集約が必要。
4.感染症対策の司令塔が不在だった。

病院・病床の多様性

考察を加えてみる。確かに日本の病院・病床は、他の先進諸国に比べて多い。人口当たりでざっと4~5倍といったところだ。そして、急性期ではなく、どちらかというと回復期・慢性期に属する病床が多い。 しかし、このような状況を見て、直ちに「間違っている」「おかしい」とするのは、短絡的過ぎるということを指摘しておきたい。

今さら言うまでもないが、 現状では高齢者夫婦だけや独居の世帯も多く、急性期を脱したからといってすぐに自宅に戻って療養できるわけではない。また戻れたとしても、自宅が狭かったり、バリアフリーが十分ではなく、苦労するだろう。 厚生労働省をはじめとする政府や関係者による分析とは異なるかもしれないが、急性期を脱した後で、回復期や慢性期と呼ばれる病床で病状が一定程度安定するまで療養ができるということ、同時に医療費がそれほどには高くないこと、そして世界最高の長寿を享受できていることは、それはそれで恵まれた素晴らしい姿と考えることもできる。

急性期病院はデパートか

そしてこの急性期病床についてはどう言っているかというと、急性期と称しながら新型コロナの患者の受け入れや診療が十分でなかったことをもって「なんちゃって急性期病床」ばかりだったとのことである。 確かに表面だけみればそういう解釈もできるかもしれない。 しかし、これは急性期病床の本質を理解していないものと言えよう。 そもそも急性期病床というものは、何か学問的に定まったいくつかの特別な要件があって、それらをすべて満たした時にそう名乗っているというわけではない。実は一口に急性期と言っても病態は様々だ。骨折や外傷の急性期対応もある。 狭心症・心筋梗塞の患者に対して、緊急心臓カテーテル検査や治療ができるところもある。 吐血という形で消化管から出血して運び込まれた患者さんへの対応もある。 例示するとキリがないが、いずれも急性期の病院であり病床なのである。

そこであらためて考えてみるが、今般の新型コロナ禍で急性期の病院・病床に求められた機能は何だろうか。端的に言えば、感染症の病棟・病床を有し、人工呼吸器、ECMOが使えるということになろうか。これまでの感冒やウイルス疾患の診療に照らして考えると 、人工呼吸器やECMOを使用するケースは極めてまれだし、また保有していたとしても、いつでも、また同時に多くの患者に対して、すぐに使える体制にあるというところばかりではない。つまり、今般の新型コロナ感染症とその診療は極めて特殊だったということである。

ところが、厚生労働省や政府の言う地域連携や地域包括の観点、あるいはこれに乗っかったマスコミの論調からうかがい知る限り、彼らは、急性期病院とは、何でも取り扱う百貨店のような総合病院的なものを想定しているらしい。そして、この急性期の区分も、発症から軽快・治癒までという「時間軸」で切り分けられるものらしい。そしてそうやって切り分けられた病院群や医療機関群が、相互に連携と分化を図っていくものらしい。

しかし、現実には、前述のように「時間軸」とは別の、疾患や疾患群で切り分けた場合の連携や分化もあるはずだ。それが理解できていないと「わが国には急性期病院や急性期病床はたくさんあるはずなのに、新型コロナの患者は受けいれられない。」という短絡的な論調になってしまうのだ。例示したような、単科のあるいは特定の疾患群に特化した急性期病院・急性期病床もまさしく「急性期」なのである。

解決策は集約だけ?

関連して、その解決策として病院の「集約」が提言されている。そもそも一方では地域連携や機能分化と言っているのに、解決策となると「集約」というのは矛盾していないか。前述のような総合病院を増やしたいのか。公立病院改革の流れの中で、そもそも病院の統合を目指していたので、新型コロナ対応にかこつけて、あらためて集約を強調しているのか。全国それぞれの地域で常にそれほどの需要があるわけでもないのに、何でも取り扱う百貨店のような総合病院的な病院「だけ」にしてしまえば、それはそれで非効率ではないか。

人口減で、患者が減少するからというのも集約・統合の理由に挙げているが、そうだろうか。他のサービスの世界はどうだろう。東京や大阪のような大都市以外では、確かに人口減少が進み、旧来の商店街は廃れ、巨大なショッピングモールにだけ人が集まっているように思うかもしれないが、一方でコンビニエンスストアのような小さな小売店も依然として盛況で、両者は上手にすみ分けている。集約・統合だけがすべてではないということを教えてくれる。

要は、今般の新型コロナにすべての病院、とりわけ急性期と名乗る病院がしっかりと対応できないからと言って、日本の医療や日本の急性期医療全体が間違っている、遅れていると解釈するのはあまりにも短絡すぎる。 そして集約・統合で乗り切れるとするのも短絡的だ。

医療機関で働いたこともなければ、医療に詳しくないマスコミや評論家も問題なのだが、そうした暴論に近い主張に対して、医療関係者から反論が出てこないことも気にかかる。 医療のことを真剣に考えている医療関係者は、高邁な理論はさておき献身的に目の前の患者さんに対応しており、こうした浅い理解に基づく議論に関わっている時間はないということなのかもしれない。しかし、そうした意見を黙殺ということでもなかろうが、見逃していると、いつしかそうした解釈・見解が正しいものであるとして世の中に定着する恐れがある。

歴史と流れを大切に

司令塔機能について考えてみよう。私自身はこの考え方には、どちらかと言うと賛成である。しかし、これまでの歴史的な経緯も踏まえる必要がある。第二次大戦後の流れは、それが良い事か悪い事かは別として、地域の問題は地域で解決ということで進んできたはずだ。言ってみれば、中央集権から地方分権の一環である。それが、問題が起こるとその逆、つまり司令塔という考えになるのはこれもまたあまりに短絡的すぎはしないか。つまり、何でも地方分権ということではダメで、内容によっては中央のコントロールが必要ということか。それならばそういう整理をしてからにしてほしい。そもそもCDC(注2)の歴史や実態 を知った上で提案しているのかも疑問だ。詳細は略すが、CDCは「戦時マラリア対策局」がその出発点であることを書いておく。わかる人にはその意味がわかっていただけるだろう。

病床の確保についても、 旧・伝染病予防法の廃止と新たな感染症法の制定の際にどういう分析をし、議論をし、どういう結論を出したかを、じっくりと再検証すべきだ。まさにこの時に国会の議論をへて伝染病隔離病舎その他を廃止したのではなかったか。

補足すると、「もはや感染症の時代ではない。」との掛け声とともに、過去30年にわたって保健所の統廃合を進めてきた(注3) ことについて、どう考えるのかも政府関係者やマスコミ諸氏に聞いてみたいところだ。要は、思いつきのように新しい組織や仕組みを提案する前に、まずはこれまでに縮小したり廃止したりしてきた組織や仕組みの歴史を振り返って、その反省のもとに議論を進めるべきだ。

私の提案

批判だけでもいけないので、医療機関に関することで提案しておこう。一言で言えば医療機関や医師の能力やキャパシティーをプロファイリングし、可視化し、中央におかれる(はずの)司令塔が、必要に応じ患者や資源を振り分けるということである。今般の新型コロナのような感染症が未曾有の事態をもたらしたからと言って、感染症だけを取り上げて、新たにそのための専門の司令塔だとか専用の病床の確保と言うのは、無駄とは言わないが、効率的ではない。健康を脅かすような危機は感染症だけではない。天変地異による健康被害もあるだろう。新たな腫瘍のようなものが発見されることもあるだろう。そうした事態が発生するごとに、司令塔だ、専用の病床だというのは効率的ではないということだ。たいていは、需給のミスマッチが最大の問題になるはずなので、どの地域のどの医療機関に行けばどの医師から必要な医療が受けられるかをDX等で可視化しておけばいいのだ。あとは、医師を含む医療関係者を必要に応じて派遣できる体制をつくればいい。その際、派遣元における医療法標準等の規定を免責にし、さらに遺失利得を補填する仕組みをつくっておけばいい。

おわりに

まとめてみよう。まず、多くの先進各国における病床と日本の場合のそれとは意味合いが異なるということである。前者が真に重症化した場合にのみ受け入れる場所であるのに対し、後者は一定の診療が終了し、回復の状態に向かっていても、受け入れを継続し療養させる場所である。一概にどちらが正しくどちらが間違っているとは言えないはずだ。もちろん、現在の医療に非効率で患者本位でないところは多々あるので、それらはもちろん是正しなければならない。

また、医療の地域連携や機能分化という言葉が語られるようになって久しいが、時間軸に基づくものだけが機能分化ではない。実際には、ある特定の疾患や疾患群による機能分化もあり、一口に急性期病院だからといってあらゆる疾患に対応できるわけではないということを理解しなければならない。そうであるならば新型コロナ患者を受け入れなかったからといって直ちに「なんちゃって急性期」などと非難することはできないはずだ。この点を多くのマスコミや専門家も理解する必要がある。医療の究極の目的は健康の回復であり生命の延長である、そしてそれらが合理的な「負担」で達成できるということであるとすれば、我が国は相当程度にそれらを達成していると言える。また、新型コロナによって、国民のすべてが大変な影響を受けていることは事実だが、だからと言って過去のいろんな決定や対策の歴史を検証(注4)することなく、単に米国を模してみたり、付け焼き刃的なアイデアを提案することは、かえって混乱と非効率を生むと言っておきたい。

【脚注】
(注1)・「〈指標で読む参院選争点〉医療再建、踏み込み不足 コロナ感染942万人 社会・経済と両立なお課題」(日経新聞オンライン, 2022年7月6日) 
「医療再編、人口減少時代の最適解 地域の病院などが連携」 (日経新聞オンライン, 2022年7月6日)
(注2)Centers for Disease Control and Prevention 私も20年ほど前に訪問したが、巨大な組織だった。次の記事がCDCの概要を端的に表している。 第 118 回 日本医史学会総会 一般演題(2019年)「CDC の歴史から学ぶ事」(著:加藤茂孝 元国立感染症研究所/元理化学研究所) 
(注3) 保健所数の推移(全国保健所長会HP) 
(注4)別の視点からの、興味深い記事を見つけた。ただし、文中に「科学者だって自分の専門領域以外では素人である。なのにそれを自覚せず、聞く耳を持たない。複雑な事象に対し特定の専門分野だけで絶対的な正しさをつかもうとする――と。90年以上たっても色あせない戒めといえよう。」とある。ここにある「科学者」は「人文科学・社会科学の関係者」に読み替えてみるといいだろう。「コロナ禍巡る専門知の死角 責任負うのは政治の役割」 (日経新聞オンライン, 2022年7月22日)

ーー
佐藤敏信(久留米大学教授・医学博士)

◇◇佐藤敏信氏の掲載済コラム◇◇
◆「公衆衛生しか知らない医師だが、ウクライナ問題を考察してみた」【2022.3.29掲載】
◆「新型コロナ下の報道と衆議院選の結果から見えた日本のマスコミの限界」【2021.12.7掲載】
◆「コロナ禍は地域医療構想にも影響を及ぼすか?」【2021.8.3掲載】
◆「コロナ禍の中でウイルスの生存戦略に思いを巡らし、我々の取るべき態度を考える」【2021.4.20掲載】

☞それ以前のコラムはこちらから

2022.07.26