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先見創意の会

江戸三山

平沼直人 (弁護士、医学博士)

東京23区内にもれっきとした「山」があり,江戸時代から親しまれていたことがわかる。

愛宕山
マッカーサー道路や虎ノ門ヒルズの開発で立退きになってしまった私どものオフィスは,港区愛宕一丁目1番,つまり愛宕山(あたごやま)の麓(ふもと)にあった。
愛宕山は,標高25.7メートル,自然の山としては23区内の最高峰である。
1925年(大正14年)3月22日,わが国,最初のラジオ放送は仮放送として芝浦で始まったが(聴取契約3500件),同年7月12日,ラジオの本放送は,この愛宕山で開始されたのである。NHKは,1938年(昭和13年)に移転したが,その跡地にNHK放送博物館は建っている。入場は無料で,ニュースキャスターや天気予報の放送体験ができるなど,大人も子供もたっぷり楽しめて,歴史の勉強にもなり懐かしくもある。

愛宕下通りを挟んで慈恵医大のはす向かいに,講談“寛永三馬術”で有名な曲垣平九郎(まがきへいくろう)の「出世の石段」はある。
寛永11年(1634年)正月の28日,三代将軍家光が大勢のお供を連れて増上寺からの帰り道,愛宕山の下を通ると,梅花の香りがただよい,仰ぎ見れば山上に紅白の梅の花。「どの者か,この石段を馬で駆け上がり,梅の花を折り取ってまいれ」と無茶ブリである。興味のある方は,愛宕神社の社務所でも販売しているので,あの神田伯山が監修した『講談えほん 曲垣平九郎 出世の石段』(講談社・2020年)を,ご覧いただきたい。
斜度40度。86段の石段は天空に伸びるが如し。昭和の時代に平九郎よろしく登頂に成功したフィルムをテレビで見たことがあるが,最後は馬が蛇行して,命綱があっても,文字通り手に汗握る。
山頂の愛宕神社の境内には,曲垣平九郎と愛馬の顔出しパネルがある。お二人で撮れば,絆(手綱?)が深まるかも。
なお,上方落語の古典,「愛宕山」は京都の別の山である。

車も通れる緩やかな女坂を下ってゆく途中, 左手の崖下に,眼病の願掛けで知られる蒟蒻閻魔(こんにゃくえんま)の興昭院,解体新書の杉田玄白の墓がある栄閑院(猿寺)が隣り合わせに,その裏手が見える。
右手に,チーズ専門店フェルミエがある。喫茶スペースでひと休みするのもいいが,愛宕下通りまで出て左へ,虎ノ門ヒルズを越すと,大坂屋 砂場がある。1923年(大正12年)に建てられ,今では国の登録有形文化財となった日本建築で蕎麦をすするのが粋(現在は道路拡張工事のため仮店舗で営業中)。

〈頂上からエレベーターや階段で愛宕トンネルのそばに降りることもできる。このあたりは寺町である。歩き疲れたら,神谷町駅近くにあってアイスクリーム工場にイートインもある昭和30年創業というソーワ(早和)に寄って欲しい。大正7年創業の松屋珈琲店は猿寺の目の前の小道〉

待乳山
以前,待乳山(まつちやま。真土山とも)を訪れたとき,山門のそばに,池波正太郎の生誕地碑があることをあまり気にも留めなかった。
今回は,台東区立中央図書館内に設けられた池波正太郎記念文庫から巡ることとした。
(その前に,永井荷風や池波正太郎に愛された浅草の尾張屋で蕎麦でも喰って腹ごしらえがよかろう)
このことである。〈と早くも池波調〉
記念文庫には,品川 荏原の自宅書斎が復元され,絵の具や絵筆もある。自筆絵画「大川と待乳山聖天宮」も展示されている。大川とは隅田川のこと。
同文庫で買った古地図を手に東へ,浅草寺の裏を抜けて,隅田川方面に歩くこと十数分で待乳山に到着した。

待乳山は東京23区で一番低い山。標高は9メートル99センチ。
山上には聖天宮(しょうでんぐう)がある。江戸時代,天気の良い日には西を向けば富士山が見え,隅田川を眼前に望む景勝地であった。そのさまは,多くの錦絵に好んで取り上げられている。
右横に目をやると“さくらレール”と書かれた小さな赤い乗り物が見える。本堂と下の駐車場を結ぶ日本一短いモノレールだそうで,寺務所に途中停車することもできる。参詣の思い出に乗車してみるのも一興である。

山を下りて,隅田川沿いを歩く。風が心地よい。
鬼平や剣客たちも,この辺りを行き交ったのだろうか。(『鬼平犯科帳 決定版 (二)』文春文庫172頁「待乳山聖天の下を山谷堀へ」,『剣客商売 九 待ち伏せ』新潮文庫184頁「大治郎は,真土山の聖天宮の裾を通り,山谷堀へ架かる今戸橋をわたった。」)
対岸のスカイツリーがでっかい。
“すみだリバーウォーク”を渡り,目指すは吾妻橋のアサヒビール本社。醸造所に併設されたパブ“TOKYO隅田川ブルーイング”でクラフトビールを飲む。ビールがうまい!

箱根山
箱根と言っても,関所はない。新宿にある箱根山(はこねやま)は,標高44.6メートルと23区内で最も高い山である。
箱根山は,尾張徳川家の二代藩主 光友が寛文9年(1669年)ころから造営を始めた池泉回遊式大名庭園の残土によってできた人工の築山(つきやま)である。玉円峰(ぎょくえんぽう)と名付けられたが,その後,戸山荘と呼ばれていた屋敷は荒廃し,明治以降,箱根山と呼ばれるようになったらしい。
踏み板の敷かれた坂を登れば,山頂の見晴らしは見事である。桜の季節には,さぞ美しかろう。
現在は,庭園の一部が都立戸山公園となっている。戸山公園サービスセンターでは“登頂証明書”を発行してくれる。

この戸山公園の東側に終戦まで陸軍軍医学校があった。1989年(平成元年)7月22日,ここに国立感染症研究所を建設していたところ,建設現場から100体を超える人骨が発見された。
満州国ハルピンで細菌戦を研究していた731部隊(森村誠一『悪魔の飽食』)との関係が深い防疫研究室があった場所だけに,その関連性が疑われた。

戸山公園は20万平米近い広大な面積を誇り,副都心とは思えぬ環境の良さである。
園内には,戦後,建てられた日本基督教団の戸山教会がある。その土台はアーチが印象的な石造りであるが,かつての将校集会所の面影をとどめている。
広場では,たくさんの子供たちが元気よく遊んでいる。子供たちの笑い声,はしゃぐ声が空高く響く。
世界中の子供たちの平和を切に願わずにはいられない。

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平沼直人(弁護士・医学博士)

◇◇平沼直人氏の掲載済コラム◇◇
「日本版 ❝善きサマリア人法❞を!」【2021年10月7日掲載】
「無」【2021年7月27日掲載】
「”賠償科学”を知って欲しい!」【2021年5月6日掲載】
「美少女画」【2021年4月6日掲載】
「性」【2020年11月24日掲載】
「成年後見人の医療同意権」【2020年11月5日掲載】

☞それ以前のコラムはこちらからご覧下さい。

2021.12.14